言葉が出ないとき
最近の世間情勢。
まあ、目まぐるしく慌ただしく、日々色々なニュースが目に入る。
情けないニュース、やるせないニュース、くだらないニュースなど、ネガティヴな内容も多い。
それぞれのニュースや事件、国際情勢に関し、いろいろ意見はある。
が、あまりにも思うことや意見が多いと、言葉はまとまらない。
言葉が出ない。
それぞれのニュースごとに言いたいことをまとめてnoteにしても良いのだが、どうも気力が起こらない。
言いたいことが多いと、逆に言葉を紡ぎ出す気力がなくなる。
世間情勢に対する確固たる主張は割と多いのだが、多すぎると言葉がまとまらない。
これは私の性格でもある。
そこから書く行為そのものに抵抗感が増えたのか、最近は日記や日々の工夫等をnoteにまとめることもしていない。
文章そのものに対して、書くという気力が起こらなくなった。
また、今年は私の周りの環境も慌ただしく、その関係でnoteから離れた時期もある。
そういったことも重なり、言いたいことはあるのに言葉が出ない、文章を書く気力がない、そんな状態が続いている。
そこで改めて気づいたのだが、
やはり私は文章を書くより読むほうが好きなのである。
世間に対して何か評論するのは私の仕事ではなく、自分で重い腰を上げて文章を生み出す気力が起きない場面は多々あるのだ。
そこで思う。
言葉が出ないならいっそ開き直り、とりとめのない文章を適当にまとめて公開しようかと。
開き直ってまとまりのない文の羅列を書く。
書けば何か良い表現が生まれるかもしれない。
良い出来かどうかはこの際気にせず、何かを生み出すという方向に焦点を置こうと思うわけだ。
常々考えていることだが、仕事と関係のない場で何かを生み出すのも良いことだ。
仕事でないなら、何の縛りもしがらみもなく何かを作り上げることができる。
その一番手っ取り早い方法は、文章を書くことである。
大多数の人間が簡単にできる行為なのだから。
もちろん、簡単に文を書いてSNS等で公開できる時代だからこそ、負の側面もある。
ネットで軽率な発言や他者を不快にさせる発言をする人は後を立たない。
しかし、そういう他人を小馬鹿にした文章ではなく、自分の心情をありのままに書く文章であれば、どこか芸術性があるはずなのだ。
他人のことではなく自分の心情等を中心に書けば、よほどのことがない限り他人に迷惑もかけない。
思う存分、手っ取り早く何かを創造できる。
こんなわけのわからない世間情勢だ。
言葉が出てこないときもある。
それでも何かを生み出す。
それは自己満足であり、自分のためでもあるが、その何かを生み出す行為が少しでも誰かの役に立つかもしれない。
書けば何かが生まれる。
こんな当たり前のことを忘れかけていた自分を叱りつつ、今一度「書く」という行為と向き合う。