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タダより高い贈り物の“お返し”はやっぱり高かった | 自由の女神像の誕生秘話(事後談) #8
今回は余談、というより事後談です。
贈り物の文化は世界中に存在し、人は何かをもらうとお返しをしたくなるものです。フランスから自由の女神像を贈られたアメリカ人も例外ではありませんでした。結果的に大きな喜びをもたらしたこの贈り物でしたが、それに対するアメリカからの「お返し」は、思わぬ形で高くつくことになりました。果たして、どのような顛末を迎えたのかを見ていきましょう。
予想外の維持費高騰! : プリンセスへの祭壇と化した「自由の炎」
五郎さんの教養講座で紹介されていたように、自由の女神像のトーチは完成から100年後の1986年に交換されました。1919年に彫刻家ガットスン・ボーグラムが改修し、内部をくり抜いてガラス張りにし、内側から照らせるようにしたものの、経年劣化によって1986年に24金張りの黄金のトーチへと置き換えられたのです。
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この修復作業はフランスの2つの工房がアメリカに出向いて行いましたが、そのうちの一つである銅加工工房の顧問弁護士が、新しい黄金の炎の正確なレプリカをフランスにお返しとして贈ろうと思いつきます。ちょうど「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙が1987年に創刊100周年を迎えることもあり、共同スポンサーとして支援が決定。大規模な寄付募集広告を展開し、製作費40万ドルの資金を集めました。
こうして「自由の炎」のレプリカは、女神像の炎と同じ工房で製作され、1987年9月10日にお披露目された後、船ではなくエールフランス機でフランスへと輸送されました。現在、パリのアルマ橋右岸に設置され、エッフェル塔を背景に輝いています。この時点では、フランスにとってそれほど負担の大きな贈り物には思えませんでした。
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しかし、設置から10年後の1997年8月31日、アルマ橋トンネルでダイアナ妃が交通事故で命を落とします。これを機に、「自由の炎」は彼女を追悼する場となり、多くの人々が訪れるようになりました。さらに、ダイアナ妃と親しかったエルトン・ジョンが追悼曲『キャンドル・イン・ザ・ウィンド』を発表したこともあり、「自由の炎」がまるでその楽曲を象徴するモニュメントのように捉えられるようになります。その結果、本来の意図とは関係なく、この炎はダイアナ妃のための「祭壇」として機能し始めたのです。
この変化により、「自由の炎」には数え切れないほどの「贈り物」が捧げられることになりました。献花やメッセージ、ダイアナ妃の写真や記事が飾られただけでなく、モニュメントそのものや周囲の手すりには落書きが絶えませんでした。
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パリ市は定期的にこれらの「贈り物」を撤去し、モニュメントの清掃を行いましたが、落書きは後を絶ちませんでした。ついには、表面に特別な加工を施し、落書きを防ぐ対策を講じることで、ようやく金色の輝きを保てるようになりました。しかし、落書きとの戦いは終わったわけではなく、今後も注意が必要な状況が続いています。
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花束には下心がある? : 同じトーチ型でも愛されない贈り物
「自由の炎」の落書き問題がようやく落ち着いたころ、アメリカから新たなお返しのオファーが届きました。今度の贈り物は炎ではなく、自由の女神像のトーチのデザインを踏襲し、約12メートルの高さに作られた、右手に握られた11本のチューリップの花束でした。
この贈り物は、2015年11月にパリで発生した同時多発テロ事件の犠牲者を追悼し、フランスとアメリカの友情を象徴するものとして考案されました。発起人は、当時の駐仏アメリカ大使。彼女は、事件後にアメリカ市民から寄せられた多くの支援と友情のメッセージに感銘を受け、アメリカ人アーティストのジェフ・クーンズにアート作品の制作を依頼したのです。
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このプロジェクトの資金は、自由の女神像の寄贈時と同様に民間の寄付で賄われる計画でした。制作費は約350万ユーロと見積もられ、作品をモチーフにした商業製品の販売による収益の80%を犠牲者遺族への寄付、残りの20%をモニュメントの維持管理に充てることも決まっていました。
しかし、パリ市長が受け入れを承諾したにもかかわらず、市民の反応は芳しくありませんでした。
その理由の一つは、クーンズの過去の作品がしばしば「挑発的」かつ「投機的」と見なされており、拒否感を持つ人々が少なからずいたことです。このため、「この贈り物はアーティスト自身の宣伝行為ではないか?」という疑念が拭えませんでした。さらに、「テロ事件と作品の関連性が見えない」、「街の美観を損ねる」といった批判も相次ぎました。
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結局、この贈り物は設置場所を巡って紆余曲折を経ることになります。パリ近代美術館、パレ・ド・トーキョー、ヴィレットといった候補地をたらい回しにされた後、最終的にプティ・パレ近くのシャンゼリゼ庭園内に設置されました。在仏アメリカ大使館からも近く、中心地でありながら人目につきにくいこの場所ならば、作品を嫌う人々を刺激しすぎず、無難な落としどころとされたのでしょう。
この贈り物が時を経て皆に愛されるアートとなるのか、それとも忘れ去られるのか、今後の動向に注目が集まります。