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巨大彫像の技法 ー 薄い銅板に託されたメッセージ | 自由の女神像の誕生秘話 #2

前回は、五郎さんの「オトナの教養講座」で取り上げられた自由の女神像の特殊な工法について紹介しました。鋳造ではなく銅板を成形することで、極めて薄い銅板を用いながらも巨大な彫像を実現できる技法です。

今回は、同じ技法で制作された彫像に共通する特徴を探ります。作例は少ないものの、同時代にもいくつかの彫像が作られていました。この考察は、後に自由の女神像誕生の経緯を多角的に検討するための重要な手がかりとなるはずです。ぜひ、最後までお付き合いください。



同時代の英雄像 : フランスとドイツが探した国家の象徴


前回、バルトルディが自由の女神像を構想するにあたり、ルプセ技法で作られた最初の例とされる17世紀末の彫像「聖カルローネ像」をイタリア・アローナに視察していたことを紹介しました。しかしバルトルディはおそらく、同技法で制作された同時代の彫刻も参考にしていたと思われます。1865年のサロンに出品されていた「ウェルキンゲトリクス記念碑」です。

1865年、産業宮に展示された未完成のウェルキンゲトリクス記念碑。当初はナポレオン3世への不満もあり批判の声も上がりましたが、1871年の普仏戦争でフランスが敗北すると、ウェルキンゲトリクスは国民的英雄として再評価され、ドイツへの報復感情を煽る象徴として利用されるようになりました。


この銅像は、ナポレオン3世の命によって彫刻家エメ・ミレーが制作したものです。高さは6.6メートルと聖カルローネ像よりずっと小型ですが、内部は同じく空洞で、銅板を打ち出し、叩いて形成し、骨組みに固定する構造になっています。そしてこの像の台座と内部構造の設計を手がけたのはウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュク、つまり、自由の女神像の内部構造を最初に請け負った人物なのです。

五郎さんの教養講座では、自由の女神像内部の鉄骨構造はエッフェル塔を建設したギュスターヴ・エッフェルが設計したと紹介されています。しかし、実際には最初の設計者はヴィオレ=ル=デュクであり、彼が1879年に死去したため、その後エッフェルが引き継ぎ、完成させたという経緯があります。

ウェルキンゲトリクスとは、古代ローマによるガリア侵略に抵抗した指導者で、フランス最初の英雄、ガリア解放の象徴とも目される人物です。その証拠に、この記念碑の台座には「統一されたガリアは、ひとつの国家を形成し、同じ精神に導かれ、世界に挑むことができる」という銅製の帯が掲げられています。さらに、その下には「フランス皇帝ナポレオン3世、ウェルキンゲトリクスの記憶に捧ぐ」と刻まれています。

1865年以来、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地方のコート=ドール県アリーズ=サント=レーヌ村を見下ろすオークソワ山の頂に立つ記念碑。この地は、ウェルキンゲトリクスがローマ軍に敗北した「アレシアの戦い」の舞台であり、ガリアの要塞都市アレシアの遺跡が残る歴史的な場所です。


では、なぜナポレオン3世はウェルキンゲトリクスをこれほどまでに称え、このような銅像を制作させようと考えたのでしょうか?

その背景には、ドイツで1841年から建造が進められていた「ヘルマン記念碑」の存在があります。これは、紀元9年の「トイトブルクの森の戦い」でローマ軍に勝利したことを記念する巨大な記念碑であり、円形の基礎部分の上に、ローマ帝国の支配からライン川以東のゲルマン民族を解放した指導者アルミニウス(ドイツ語でヘルマン)の銅像が設置される予定でした。

ちょうどその頃、ヨーロッパではナショナリズムが高まり、ライン川の東側ではドイツの英雄としてアルミニウス神話が生まれつつありました。これに対抗する形で、フランスはウェルキンゲトリクスを英雄として担ぎ上げ、独自の祖国神話を築こうとしていたのです。

エルンスト・フォン・バンデル設計のヘルマン記念碑。28.62メートルの台座の上に24.82メートルの銅像がそびえ立ち、総高53.44メートルを誇るドイツ最大の記念碑です。1886年に自由の女神像が完成するまで、西洋世界で最も高い像とされていました。台座には「ドイツの統一こそ私の力 ― 私の力がドイツの力を生む」という銘文が刻まれています。建造は1841年に始まりましたが、完成したのは1870年の普仏戦争および1871年のドイツ統一を経た1875年。そのため、この英雄像は新生ドイツの象徴ともされています。


さらに興味深いのは、このドイツの英雄像であるアルミニウス像もまた、内部に鉄骨構造を持ち、その表面をリベットで接合した銅板で覆うという、フランスのウェルキンゲトリクス像とほぼ同じ技法で制作されていることです。

残念ながら、フランスのウェルキンゲトリクス像も、ドイツのアルミニウス像も、その銅板の厚さに関する情報は見つけられませんでした。したがって、自由の女神像の銅板の厚さを検証する材料にはなりません。しかしながら、これらの銅像には技法以外にも、ある共通点があるように思えます。それは、象徴性とプロパガンダ性です。

ローマ帝国のゲルマニア侵攻を阻止した「トイトブルクの戦い」を指揮したアルミニウス像がそびえ立つヘルマン記念碑。ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州、トイトブルクの森の東南部、標高386メートルのグローテンブルクの頂に位置し、遠くからでもその威容を望むことができます。


「自由の女神像」へと繋がる巨大彫像に託された象徴の系譜


まず最初にバルトルディが参照した、北イタリアにある「聖カルローネ像」のモデルとなった16世紀の聖職者カルロ・ボッロメーオ(1538-1584)は、カトリック対抗宗教改革の象徴的存在でした。この聖人を称え、1610年に列聖された彼の巨大像が建造されたのは、カトリック勢力によるプロパガンダの一環だったとも言えます。

それから約2世紀を経て、ヨーロッパでナショナリズムが高揚する中、フランスでは「ウェルキンゲトリクス記念碑」、ドイツでは「ヘルマン記念碑」が相次いで制作されました。いずれも、国家の歴史を遡り、その起源を神話化するために、象徴的な人物を掘り起こし、称えることで、国の威信を体現する記念碑的な像としての役割を担っていました。

おそらくバルトルディは、こうした背景を踏まえた上で、さらに巨大な「自由の女神像」を構想したのです。ただし、彼が掲げたテーマは国家の威信ではなく、アメリカという若い国が掲げる「自由」と「民主主義」でした。さらに、この像は単なる国家の象徴ではなく、米仏友好の証として贈られる点で、過去のプロパガンダ的な記念碑とは一線を画し、より普遍的な意義を持っていました。

こうした発想は、果たして一人の彫刻家の力だけで生まれるものでしょうか?

次回は、この壮大なプロジェクトが誰によって、どのように始まったのかを深掘りしていきます。

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