2025年2月の記事一覧
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映画「戦争と人間」永田軍務局長斬殺事件と2.26事件
『戦争と人間』は、1970年(昭和45年)から1973年(昭和48年)にかけて公開された3部作の日本映画である。日活製作。 監督は左翼の山本薩夫。 五味川純平の同名大河小説『戦争と人間』の映画化作品で、日本映画としては同じく五味川の小説を映画化した『人間の條件』の9時間31分に次ぐ9時間23分の長さを誇る、日活製作による戦争大河超大作である。 動画の「永田軍務局長刺殺事件」である相沢事件は、日本で発生した暗殺事件。 1935年8月12日、相沢三郎陸軍歩兵中佐(陸軍士官学校第22期)が、軍務局長永田鉄山少将(陸士第16期首席、陸軍大学校第23期恩賜)を陸軍省において白昼斬殺した事件である。被害者側の名前から、永田事件、永田斬殺事件とも言う。 陸軍内における皇道派と統制派の内紛の末に起こった事件であり、翌年2月の二・二六事件に繋がった出来事の一つである。 8月12日午前9時30分頃陸軍省に到り、相沢が一番尊敬していた整備局長山岡重厚中将(陸士第15期、陸大第24期)を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、午前9時45分頃、軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜いて永田に切りかかった。 室内にいた東京憲兵隊長・新見英夫大佐が永田をかばったが、右手を切られて重傷。 そのまま相沢は永田に切り付け、次いで背中から刺突を加えて殺害した。 その間、兵務課長・山田長三郎大佐は室内から脱出している。 山田大佐は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決した。
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『ザ・パシフィック』ペリリュー戦車戦
『ザ・パシフィック』 は、実話を基に太平洋戦争における米海兵隊員達と日本軍の死闘を描くテレビドラマシリーズ。 ペリリュー島での戦闘は苛烈を極めた。 私も慰霊祭へ行き、戦跡を訪ねた。 砲塔の吹っ飛んだ九五式軽戦車の残骸を見て元戦車乗りとして胸が痛んだのを覚えている。 動画の戦闘シーンの解説。 日本軍は第一号反撃計画に基づき、ペリリュー島指揮官中川大佐が反撃の有力戦力として温存していた95式軽戦車を伴った決死斬込隊による反撃をおこなった。 17両の95式軽戦車の車体にはロープがまかれ、そのロープを歩兵が掴み戦車跨乗での出撃となった。 中川大佐の期待も大きく、出撃する戦車隊に対しいつまでも手を振っていたという。 ペリリュー島に配置されていた95式軽戦車隊は第14師団直轄の戦車隊であり天野国臣大尉が率いていた。 天野の隊長車の砲塔側面「さくら」とペンキで記されており、他の車輌も識別し易いように1輛ごとに名前がつけられ、「さくら」と同様に砲塔側面に車名が記されていた。 戦車隊は連日の猛訓練により、800mの距離でも100発100中の命中率を誇っていた。 天野は自ら先頭車に乗り込むと整備中の1輛を除いた16輛で最高速度45km/hで目標の西海岸に突進していった。 天野の戦車隊は第1海兵連隊と第5海兵連隊の中間点あたりに進撃してきた。 海兵隊は今まで太平洋の各戦場で日本軍の無謀なバンザイ突撃を何度となく撃破してきたが、この反撃は戦車と歩兵が見事に連携した攻撃であり、今までの日本軍とは違って非常に手ごわいと感じたという。 しかし、突進してきた戦車隊をM4中戦車が待ち構えており、訓練度に勝る95式軽戦車の砲弾は次々とM4中戦車を捉えるが貫通することができず、逆にM4中戦車の75mm砲は易々とわずか12mmの95式軽戦車の装甲を貫通し次々と炎上させた。 天野は軽快な動きを活かしてM4中戦車の側面に回り込んで砲弾を浴びせたが、それでも豆鉄砲のようなもので貫通できなかった。 また、サイパンの戦いで、日本軍の戦車第9連隊の戦車を多数撃破した新兵器バズーカがここでも猛威を振るって、戦車隊は目的の海岸に達する前に大損害を被り、海岸付近まで達することができた戦車はわずか6両で、その6両も集中砲撃や勇猛な海兵隊員による白兵戦で次々と撃破され、生き延びたのはわずか2両と壊滅し反撃は失敗に終わった。