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密教という、巨大な「真意」を追求してみる@苦行するだけで、それが描けるのか、実践的に考えてみるのだ。    講座「仏教と日本の関わり」はいかに?その7

即身成仏の論理 

人の心の迷いや苦しみは、
「苦( दुःख)」である真実に気付けない
「煩悩(क्लेश)」がすべて原因である


 という仏陀の真理は、この宇宙そのものが、
そこに存在するものの心や思いとはまったく関係なく、
ただそのままに流転しているという事を
ちっぽけな存在である思惑が
入り込むことはあり得ない事に気づく事で、
その心がまさに真理となり、
宇宙そのものになる=いわゆる「目覚め(ブッダ)」。
という事に気付けない迷いである
という事になります。

本来は目覚めてしかりなのに、気づけないでいる。
そういうのが迷いで、それを払った人は、
即そののまま、
その身のままで目覚める=ブッダになれるよ(即身成仏)
という論理が、
空海が嵯峨天皇の前で説いた「真理」です。

 言葉にするとややこしいんですが、
だったら体現しなさいよっていうわけです。
この世というか、宇宙に関わるというか現象自体は、
言ってみれば何があろうと
そのことは「あたりまえにある」わけです。

すなわちそこの一角である、
ましてや人の思惑なんかまったく関係なく
この世の現象は流転し、ただ原因と結果を
繰り返している真実のみに
目を向けなさい
っていうのが、言ってみれば根本で、

だから、人智には到底及ばぬ
大いなる真実世界を体現せよというのが
大日経であり、曼荼羅であるというわけです。

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大いなる真実の世界とは

心や現象がが空なら何もないじゃないかという論理に対し、
「大いなる真実世界」はあり、
アナタの存在はその構成要素として
当然の対象としてそこにあるという「全肯定」の考え
そこに述べています。

たとえ煩悩の種の象徴である「性」であっても、
その行為自体は「あたりまえ」のものであり、
「否定」することはむしろ
自然の論理に反するのだというのが
「般若理趣経」のスタンスです。

つまり、問題はそれに対する心のあり方
たとえば「エッチ」なんて言っている人は
「煩悩そのもの」である事は否めない事実で
「喝!」の対象になりましょう。

したがって、字面のみでこの経を
理解しようとしてもダメ
なんです。
つまりは、ぶっちゃけこういう事って
「言葉」ではどうにも表現できませんでしょう?

事象はあたりまえにあり、それを分別するのは「空」である「こころ」

同じ対象であっても、
たとえばポルノとしての意図で表現するのと、
何らかのプロテストやメッセージをそれに託すのでは、
同じ被写物であっても違いが出ては来ますが、
そもそもその「被写体」には本来何の意味も無く
「ただそこにある」だけなんですよ。
で、それは「ないよ」とはいえないのであり、
隠すこともできない真実であると言うことです。

たとえば、この事を「結婚」という言葉に
置き換えて考えてみる
ことにしましょう。

結婚の本質はいったいなんでしょう。
人は何のために結婚するのか。
何のために結婚制度があるのか。
また、日本や欧米のように何故一夫一婦制なのか、
イスラム圏は一夫多妻なのは何故か。
民族や風習、文化や宗教のスタンスによって
それぞれの「正しい」はさまざまな評価基準を設けるわけです。

だったら「なにをもって正しいのだ?」
というという問題になりますが、
しょせんあたしらが持ち出す「正しさ」など、
まったくあやふやな評価基準の下にあるというわけです。

つまり、すべては「こころ」が作りだした
「空」のうえに立った分別でしかない。
正しいのは、ただ流れていく時間や何かが原因で
結果をそのまま生み出すという
天然自然の摂理のみだということで、
それ以外の「真」など無いというわけです。

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悟りすら不変なものではない

これに気付く事が「悟り」だというわけなんですが、
厄介なのは「悟った」瞬間は至福ではあるのですが
、やがて、新たな煩悩は必ずやって来ると言うことなんです。

すなわちその段階で、悟った事に
こだわることで新たな煩悩が生まれ、
人はその繰り返しを続けるわけです。

かといって、その悟り自体はそれはそれで悟りですが、
いわゆる次の段階にすすんでしまうわけ、
即ち、悟ったと思う心が次の煩悩の種を生んでしまいます。

つまり、「悟り」すらも不変ではないのです。
これが「真理」であり、曼荼羅にいくつかの世界や
ポジションがちりばめられている所以だと考えられるのです。



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