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ムダに教養がつくかも知れない不定期な雑学講座の連載(講義中は寝ないこと)~世界宗教の基礎知識2「仏教」をひもとく  第2講 大乗仏教の成立 その9

「密教」の基礎となった「華厳経」が描く世界観

「華厳経」とは、サンスクリット語で
「ブッダアヴァタンサカ・スートラ(無数のブッダの壮麗な集まり)
といい、
漢訳の正式名称は「大方広仏華厳経」で、略して華厳経といいます。

漢訳による完全訳である 「六十巻華厳経」と「八十巻華厳経」
そして「十法界品四十巻」が存在し、結構長大な経典です。

 この経典は、もともと一つのものではなく、
複数の独立した経典を合わせてまとめられたもので、
サンスクリット語の原典として残っているのは
「十地品」と「入法界品」だけです。

この経典にいろいろな経典がプラスされ、
大きな一つの経典になったのが、この華厳経であるというわけです。
この経典は、法華経と並び、
大乗仏教ではきわめて重要な仏典でもあります。

日本には、奈良時代に鎮護国家の仏典として迎えられた。

この経典が日本に伝わったのは、
8世紀に良弁が、新羅でこれを学んだ僧を招いて
講義を行ったのが始まりだとされています。

 この経典の内容が国を治める「政治理念」として有効であったため、
「鎮護国家」の教えとなり、国家の仏教として重視されました。

 この経典の中心となる象徴が 「毘盧遮那仏びるしゃなぶつ=ヴァイローチャナ」で、
宇宙の中心という存在の象徴です。
それを具現した仏像が東大寺にある「奈良の大仏」です。

華厳経が説く「大乗」の考え

 華厳経ではまず、仏道には3つの道があると述べています。
一つは仏陀の言葉を受けて出家して修行する「声聞」
二つ目は、宇宙の真理である縁起の法に触れ、
自ら悟りに向かって修行する「縁覚」
この二つは修行することによって「自らが悟る」ことしか目標にない。

 このことはあまりに了見が狭い。

本来であれば、多くの衆生を悟りに向かわせることが本来ではないのか。
この二つでは救いがあまりにも少ないと感じ、
すべての存在には平等に仏性があり、
これらを目覚めさせ、救いを行うことこそが本来ではないのか
という考えを述べています。

 したがって、華厳経ではありとあらゆるものが
実は「菩薩」の姿なのであると説いているのです。
すなわちこれを「大乗(大きな乗り物)」と述べており、
ここの根本的な考え方から「大乗仏教」は始まっておるわけです。

 すなわち、「発心=菩提心」(悟りを求める心)をおこし、
自らの修行の完成(自利行)と
一切衆生の救済(他利行)を求めて修行を実践するものは
すべて「菩薩」=(成仏)である
と定義したのです。
ですから、大事なことはその存在というより、
心がけや行動であろうということになります。

この考えを受けて、「十地品」では、
菩薩が如来に出会い、修行を始めて、
十の段階を経て悟りを選るまでの様子が描かれています。

入法界品では、善財童子という主人公が登場します。
この少年が文殊菩薩に促されて求道の旅に出かけ、
様々な立場の53人を訪ね、
善知識を得るというストーリーです。

一は即ち多であり。多は即ち一である。

華厳経の世界観では、浄土教と同様、今の世界とは別の世界があり、
そこにブッダがいるという考え方をしています。

 浄土教においては、死んだあとに往生した極楽浄土でブッダに出会う。
と説いたのですが、華厳経では、
この世で生きたままブッダにあうことができると説いたのです。

 つまりは、「リモート」でブッダに出会える。
という離れ技です。

この世界には無数のブッダが いるのですが、
それらは「毘盧遮那仏」という一人のブッダに
すべて収束されているのだという世界観です。

 宇宙にはたくさんの世界とブッダがあるように見えるのだけれど、
元をたどれば、毘盧遮那仏という
一人のブッダなのだという考え方です。

 インターネットの世界で考えれば、この世界観は容易に理解できます。

インターネットはそれぞれの端末と、ネットワークの集合体ですが、
中心になるコアは存在しません。
つまり、「ネットワーク全体そのものが一つの存在である。」
ということになります。

この概念が「毘盧遮那仏」であり、
各世界のブッダはその先の端末として
無数に存在していると言うことです。
ですから、今ある一つはそのまま無数でもあるわけですね。

 すなわち、個々のブッダの世界は独立してるようですが、
すべては毘盧遮那仏とつながっているゆえに、
個としての存在(ネットデバイス)でありながら、
巨大な存在(WWW)であるよね。

 という感覚です。ですから、
華厳経で言っているのは、無限に存在するすべてのブッダは、毘盧遮那仏そのものである。
すなわち、この世界に現れたブッダが
バーチャル映像であったとしても、
そもそも毘盧遮那仏なのであるから、それはリアルなものだ。
という風に説いたわけですね。

 聖書にある「アルファはオメガであり、オメガはまたアルファである。」という文言も考えてみれは似た印象を持ちますが、
まぁ、これは破壊とは創造であり、創造とは破壊である。
という意味合いですから、ちょっと違う気もしますが、
論理的には似た概念なのかも知れませんね。

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華厳経が、奈良仏教として日本に根付いた理由

われわれの脳の中にも、それを構成する細胞の一つ一つに、
無限の宇宙と同等な小宇宙が存在している。
と、よく言われているのですが、世界は無限につづいているわけです。

そういう世界の中に生きているのだから、
「一」はそれでいて同時に「全」の表れなのだといえます。
数学的に言えば「フラクタクル」であると考えられますね。

小さなものの中に「宇宙」があるという考え方は、
日本文化の世界観にも通じるものがあります。
よい例が「枯山水」などの日本庭園は、
「一即多、多即一」の考え方を具現していますね。

華厳経においては、毘盧遮那仏とは
「宇宙の真理」「宇宙そのもの」という位置づけです。
したがって、あたしたちのいる世界に降り立った
「人間」という形で現れた「釈迦牟尼仏=お釈迦様」は、
この宇宙仏の「人間界の具現体」として
送り込まれた存在であるという論理が成り立ちます。
ですから、お釈迦様も毘盧遮那仏のこの世での映像なのだと
とらえることもできます。

 鎮護国家の考えで言えば、地方は中央の表れであり、
同時に地方がそのまま中央なのだという考えが、
律令制の理想に合致し、
東大寺(毘盧遮那仏)と各国に国分寺が建立された利便的な動機が
華厳経の世界観から見るとわかりやすいかも知れません。

この詳しいメカニズムに関しては、後にお話しすることにしましょう。

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