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「毒親論」という症状と「牛に引かれて善光寺参り」が目指す境地

はじめに~臨床心理学の術語の意味について


神経症にはわれわれ自身の最高の敵、あるいは友が潜んでいる(CW 10 8359)。いかにして神経症を片付けることができるかに努めるべきではなく、神経症が何を思い、何を教えてくれるのか、その意味と目的は何であるのかを知るように努力を払うべきであろう。神経症が誤った態度を取っている自我を片付けてしまって初めて、その神経症が本当に「片付けられた」ことになる。神経症が治療されるのではなくて、神経症が我々を治療するのである」(CW 10 8361 カール・グスタフ・ユング)

もしお好みなら、世界を『ソウル=メイキングの谷』と呼びなさい。そうすれば世界の使い方がわかるでしょう」(ジョン・キーツ)

冒頭から精神科医ユングと詩人キーツの一見難解な言葉を長々と引用して、失礼いたしました。

私はいわゆる「毒親育ち」とか「毒親サバイバー」とカテゴライズされる人であるようです。私も妻も実の親に手を掛けられて殺められかかったところを救出されて今に至りますので、確かに私たち夫婦は「毒親育ち」ということになるのでしょう。

先日、毒親という言葉に関するややデタッチした記述を拝見いたしました。その方がいわゆる臨床系を名乗っておられる方でしたので、私はこころに深く引っかかるものを覚えてしまい、大変残念に思いました。

今日は私はその方を批判するのではなく、その方が「毒親という言葉は建設的ではない」と記述された思想の中に潜む精神病理学的・臨床心理学的な誤解について書いてみたいと思います。

「毒親」という言葉に縋るようなプロセスを通ることによってでしか、親に虐待の限りを尽くされた中から這い上がれない人というのは実在します。

毒親」であれ「アダルト・チルドレン」であれ「HSC」であれ、或いは「機能不全家族」であれ、精神病理学や臨床心理学のテクニカル・タームというのはすべからくイメージであり、人の助けになる仮説的なファンタジーです

そして、生きづらい社会に対する不適応状態や自分のたましいとの違和感が展開した状態をメンタルヘルスの「障がい論」の中に定位している現状では、古典的に「神経症」と呼んでいた病的な苦悩からの治癒や解放ということに関するリアルも治療に関する神話的イメージやファンタジーでしか捉えられないのです。

人が「毒親」とか「毒になる親」というコトバ、或いは"HSC"とか発達障害等の新手のテクニカル・タームによって自らの存在理由の位置づけを行おうと試み、悩みつつ自らの神経症状態を深めながら「自分の症状が何を気付かせようとしているのか」を真剣に模索している時に、たとえ治療者であれ臨床家であれ、傍から余計なことを言うべきではない、そのようなデッタチした言葉は神経症に相対している人を深く傷つけるということを今日は申し上げます。

それでは宜しくお願いいたします。


「毒親」という言葉がもたらす「光明」を否定してはならない

本稿の冒頭に、私は精神科医カール・グスタフ・ユングの言葉を長々と引用いたしました。

その中でユングは「神経症が治療されるのではなくて、神経症が我々を治療するのである」と言っていますね。

多くの悩める方は、自分のこの症状がなかったらどんなにいいだろうと思って苦しまれますし、実際、症状を担うということはしんどいものです。

わが子を殺そうと追いかけ、わが子に熱湯を掛けたり刃物で追いまわしたりするような親のもとに生まれたら、私のような子どもは自らの人生の意味や価値を深く問い直してやまない実存的苦悩を背負います。

私はなぜこんな家に生まれてしまったんだろうと息も絶え絶えに喘ぐ人たちにとって、スーザン・フォワードやその後の毒親論の論者が展開して来た「毒になる親」論に出会うことは、ひと筋の光明となり得ます。

親からどんなにひどい目に遭わされても、子どもにとって親は親ですから、親の子どもに対する所作や思考が毒されているということはなかなか理解しにくいのです。

自分の親がおかしいと思ってからもなお、「うちの親もいつかは分かってくれるんじゃないか」とか、「うちもいつかは仲良しになれるんじゃないか」と言った儚い夢を毒親育ちは簡単には捨てられないのです。

そんな迷える毒親育ちにとっては、たとえ一時的に縋れるだけのファンタジーの言葉であったとしても、「毒になる親」というフォワードの問題提起は希望の光となる段階があるのではないかと私は考えます。

心身の疾患はほんとうに元通りに治癒するのか

ここで私は心身の疾患の治療の現実について申し上げたいと思います。

いかなる心身の疾病であれ、一度発病したものや発症したものは、どんなに最先端の医学の粋を尽くして治療しても、元通りには戻りません。

日常生活に差しさわりのない程度にまで病気から(あるいは障害から)快復することが出来たら御の字で、医師も患者を元通りの生活や痛みのまるでない暮らしにまで戻そうとは考えないでしょう。

寛解」という言葉が医学にあるのはそのためですね。

私は現在ポリープやガンを患っていますが、この腫瘍にたいして抗がん剤や外科的手術をしても、その余命は現実にはほとんど伸びないのです。これはホスピスのドクターやガンを治療した経験の豊かな医師なら、みんな実感として判っていることではないかと思います。

例えば私の十二指腸には十二指腸腺腫に端を発したガン病変があります。

内視鏡的にその腫瘍を切除したら、確かに一旦そこのガンは削られるかもしれませんが、術後の十二指腸壁には器質的脆弱性が残りますし、手術や抗がん剤の治療でかえって体力や免疫力が落ちてしまうことは自明の理でしょう。

私はここで外科的な治療や最先端の内視鏡医療に対して否定的な見解を申し上げているわけではありません。

そうではなく、医学モデルの中の古典的な因果律(原因があるから結果としての症状が生じるという単純な発想)が精神科医療や臨床心理学の現場に無自覚かつ無批判に持ち込まれている現状に異議を申しているのです

因果律によるメンタルヘルスの「治療」は、誰かを悪者に同定してその人に病理性を押し付けることで、複雑に入り組んだ病を過度に単純なストーリーに仕立て上げることに長けています。

不登校のケースであれば、やれ登校しない子が病気だと臨床家が簡単に断定してみたり、はたまた親のせいで(親が病んでいるから)家庭に病理が蔓延しているために子どもが学校に行けないのだと言っては「親に対する心理治療」をいたずらに試みて事態を悪化させるということは、実は看過せざる割合で起こっていることだと私は思います。

心理学的・精神療法的な援助は、患者の生活から遠ざかったデタッチの中には存在できないのです。

私たち精神療法家や精神科医は、「治癒」や「治療」或いは「援助」という手垢に塗れた言葉それ自体を「心理療法」してその意味を問い直し脱構築するような「概念の心理療法」をすることを要請されているのですね。

先のユングの言葉はまさにそのようなもので、通俗的な「症状に対する治癒」のイメージを主客転倒させるようなインパクトを持ちます。

このような逆転論法は、ひとえにユングのみならず、実存分析の精神科医ヴィクトール・エミール・フランクルや、日本のポップカルチャーでは人気のあるアルフレード・アドラーにも見られる論法ですよね。

精神医療は症状の治癒に関するフラストレーションに陥っている

精神的な苦悩や症状は治癒することがない――或いは「治癒」という言葉を精神疾患や実存的苦悩では非常に定義しにくい――のなら、精神科医や臨床心理学者たちはその「治療」という営為の中でどのようなビジョンを目指して仕事をしているのでしょうか。

この点に関する臨床哲学的な議論が深められないままに、各種のセラピーが行われていることは、大変危険なことです。

○○障害には△△療法が良いとか、ある種の愛着障害トラウマ疾患にはEMDRがいいとか漢方薬の神田橋処方が良いなどと言うように、医療人も患者サイドもどこかしら迷走しているのが現代精神医療の現状ではないでしょうか。

毒親育ちというファンタジーに守られないと生きていけないような人々が~或いはそういう段階や個性化の過程が~存在することに、臨床家が謙虚に思いを馳せられたら素晴らしいですよね。

そして、精神医療における「治療」の意味について、日本の医療人やその志願者は、臨床哲学的に考えを深く巡らせた方がいいのではないかと愚考します。

牛に引かれて善光寺参り」の「牛」に当たるのが人間の症状であり、私たちはその症状の微かな声に耳を澄ませることによって、いつかは「善光寺」にお参りして自分のいのちやたましいと対話し、自分の人生の意味を問うてこそ実存的な答えを得る道が開けるのではないでしょうか。

今の日本の精神医療は、DSMという人格論なき診断基準の輸入以来、患者さんを血も涙もある尊い人格としてリスペクトする臨床的な姿勢から脱線して、ICDDSMと言った診断基準のどこに患者さんが当てはまるかに目配りするような診療姿勢になってしまっています。

それは症状の治療論や治癒像に関するフラストレーションに現代日本の精神医療や心理臨床が陥っていることを示唆していないでしょうか

症状はいたずらに患者さんの外側から操作的に働きかけて無理やり「治す」対象ではなく、症状の苦悩の中に秘められた「意味」を深めて人生の「意味」と出会う働きを得させる性質を持つものです。

微かに心の中に響く症状の「声」に耳を澄ますことが自分の人生における苦難の「意味」やある種の「悟り」へと私たちを導くように、「症状が私たちの人生の『意味への問い掛け』を『腑に落ちた納得』へとイニシエートする」とも言えるのではないでしょうか。

ひとは皆心病んで生きている~警戒すべき治療者の自我肥大

私たちは、治療の場では「治療者」と「患者」として出会うかもしれませんが、たましいの心理学の観点からしたら、治療者も患者もそれぞれ何かしら重荷を持った「病者」であり、互いに人と人との間に生きる「人間」です

そのことを忘れてしまうと、治療者がいつも正義であり患者がいつも病理の座に座らされるというシステム・エラーが生じるのです。

これはきわめて反治療的な作用をもたらします

何故なら、治療者は病気や疾患や症状の専門家ではありますが、患者さんという涙と笑いに満ちた生活史を持つひとの「専門家」ではないことを失念しているからです。

そしてこのことは、その治療者が自分の治療に関する万能感に囚われた自我肥大の状態に陥っていることを暗示しています。

この「医者―患者元型」の固定化に関する危険性に早くから警鐘を鳴らした精神分析家アドルフ・グッゲンビュール・クレイグの有名な著作に『心理療法の光と影』(創元社)がありますので、ぜひこの著作にお目通しいただけたらと思います。

ひとは皆何らかのストレスや傷や病理を持って生きています。そこを精確に射抜いた正宗白鳥の言葉もありますね。

遠藤周作河合隼雄も論じたように、自分の治療論に関する疑問は微塵もないと治療者やその志願者が尊大に思っているなら、それは臨床家としてはきわめて危ういことではないでしょうか。

自らを正義の座において他者をジャッジするなら、治療者は簡単に自らの治療のファンタジーの中に閉じ込められて、その自分の治療論の観点でしか患者さんのことも、果ては家族や知人たちのことも認識できなくなるのです。

このことについて分かりやすく論じてくださったのが、国会議員としても辣腕を振るった精神科医の水島広子氏です。

水島広子氏の著作である『トラウマの現実に向き合う~ジャッジメントを手放すということ』(創元こころ文庫、定価950円+税)は、一般の方向けに本稿の論点を分かりやすく説いた名著です。

治癒の幻想とメンタルヘルスの医療人の自己正当化の影」について知りたいとお思いの方、また毒親論やトラウマに興味のある方は、是非ともこの水島広子ドクターの著作にお目通しいただけたらと願ってやみません。

真実は劇薬、イメージは常備薬

今日私がお書きした内容は、ひじょうに大切な論点であると私は考えます。

自閉スペクトラム症という言葉を含む神経発達症や、トラウマやスティグマにまつわる愛着などの諸々のテクニカル・ターム、或いは育児の難しさの中から問題提起されたHSCという観点、さらには今日話題に出しました毒親とか毒親育ち、或いは毒親サバイバーという言葉は、ある種の人々の人生の歩みの過程において助けとなり得るからこそ世に提起されているのです。

確かに毒親という言葉それ自体が機能不全家族やそこで育った人たちの症状を根本的に癒すものではないかもしれません

しかしながら、ひとの症状というものは、それを手術するかのように外側から操作的に癒す試みを幾らしても治癒しないのです。

それならば、「牛に引かれて善光寺参り」ではないですが、そういう言い回しの中に在るイメージの力に頼りながら、「牛」でイメージされる「症状」が私に気付かせようとしている「意味」は実は「善光寺参り」のイメージの中に在るのかも知れない等と考えてみると、治療者も患者もともにより納得のいく治療ができるのではないかと私は考えています。

毒親という言葉は建設的なコトバではないというのは、ある意味では真実です。

しかし、河合隼雄の言葉に「嘘は常備薬、真実は劇薬」とあるように、症状にまつわる真実を言うことでひとの傷を射抜くのはいかがなものでしょうか。

この世の森羅万象は泡沫の夢のような側面を持つイメージとしてしかとらえられないのですから、治療者サイドも間主観性の狭間で生きることの悩みを自分の「器」の中に抱えつつ、ひとは皆こころの中に重荷を負って生きているという厳粛な事実にもう少し思いを馳せることが出来たら素晴らしいと思いませんか。

毒になる親という言葉でしか理解できないような親のもとで生まれ、何とかそこから生き延びたサバイバーたちが自分のアイデンティティを見出そうともがくときには、毒親論というのは一定の治療的な作用を持つのです。

勿論、毒親論ばかり振りかざして生涯を閉じるというのは誰にとっても不幸なことですから、どこかでこの「毒親育ち」という症状が連れていこうとしている「善光寺」とは私にとっていったい何を意味するのかを「深める」作業をする必要は出てきます。

その作業を患者さん(ないしはクライエント)が独りでするのは危険ですので、治療者が同行二人のように(自らも病める人生の先達として)、自らが個性化した地点まで寄り添っていくことには意味がありましょう。

そしてそのような作業が治療や心理臨床の実態となる時に初めて、統合失調症の治療者として名高い精神科医ハリー・スタック・サリヴァンのような治療成果を挙げることができるように愚考するものです。

結び~治療者は病気の専門家ではあるが、人間の専門家ではない

今日は「毒親論」ということに引っかかりながら、治療と治癒の世俗的なイメージの脱構築に踏み込むことをお書きいたしました。

今日私がお書きしたことは、私の筆致の至らないためにいささか難解に感じられるかもしれません(^^;

みんなで裁き合わずに、互いにジャッジしないで、それぞれの人がそれぞれの人生の道のりを歩んでいる事実を、笑顔と涙を持って受け止められたら素晴らしいですね(*^^)v

今日はラディカルなことをお書きしましたので、気に障る思いをする方がもしおられましたら、それは私の不徳のなせる業ですので、ここにお詫びいたします。

治療者は病気の専門家ではあるが、人間の専門家ではない」――水島広子

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。感謝いたします(*^_^*)

あなたの笑顔を祈りつつ、本稿を閉じることといたします(*^-^*)








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Koki_Kobayashi
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