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正しい生き方、という呪縛から解き放たれて、新しい価値観を得る

 こんにちは、少し真面目な話をする琵琶です。

 私は今まで絶対的なルールに従うこと。そこに自分の価値を見出してきていました。

 でも絶対的なルール。あるいは絶対的な価値観など本当はないのかもしれない。あるのは大衆的なルールや価値観ではないのか。
 今、そう思います。


 一つ例をあげましょう。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」
 という問いがあるとします。

 答えはとても難しいですが
 心情的に言えば、誰かが悲しむから。でしょう。
 あるいは一人の人生を終わらせる権利など誰にもない。という話かもしれません。
 そして多くの人がそういった共通の考えを持っています。
 しかしこれは絶対的なルールでしょうか。

 いいえ、違うと思います。 
 だって、それならばなぜ戦争をしているのか。
 戦争をしている兵士は殺人犯なのでしょうか。
 違いますよね。 

 平和な今を生きる人にとっては正しくないのかもしれません。でも少なくとも戦争をしている当事者たちにとっては、彼らは正しい存在のはずです。
 かつて日本が戦争中に、多くの人が日本人兵士の正しさを信じていたように。
 彼らは一部の集団が求める価値に沿った行動を取っているにすぎない。と思うのです。

 現在の日本にもそれは当てはまります。
 「人を殺してはいけないという大衆のためのルールがあるから」「社会を安定して制御するためにはしてはいけないことだから」ではないのでしょうか。
 人を殺してはいけない。それを遵守しなければ安心して生きられない。そういうルールがなければ集団で生きて行くことが困難である。 

 だから、そういうルールが設けられたから、だから人を殺してはいけない。
 ということなのではないかなと。

 


 筆が乗って前置きが長くなってしまいましたが、要するに。

  
【今持っている価値観は、環境や状況で変化してしまうようなもので、決して絶対的、普遍的ものではない】

 ということを言いたいのです。   


 人に認められること。
 普通の人間であること。
 真っ当であること。
 ルールを遵守していきること。
 人に優しくすること。
 自分より他人を優先すること。
 時間を無駄にしないでたくさん遊ぶこと。
 一つのことを長く継続すること。
 多くの経験を積むこと。
 たくさんの人と触れ合うこと。
 恋をすること。
 成功すること。

 それが人間として正しい生き方であり、人は正しい生き方をしなくてはいけない。
 と私は昔から思っていました。

 どんなスーパーマンだ。と思います。
 
 でもずっとそう思っていたのです。


 それは子どもの頃、親や先生に聞かされた「してはいけない」「しなくてはいけない」という言葉を絶対だと信じていた自分自身の純粋さのせいなのかもしれません。
 そして、それらを守れば褒めてもらえる。という経験があったからかもしれません。

 私は、ルールを守らなくてはいけない。という洗脳のごとき教えを心から信じてきたのです。


 これらのことはできるに越したことはないと思います。 
 でも必ず出来なくてもいいこと。
 出来なくても「生きる価値がない」「人としての価値がない」などと思わなくてもいいはずなのです。
 でも私は、これらができなかった時。自分が正しい生き方ができなかった時。
 自分には価値がない。

 そう思ってしまいました。

例えば「努力」

 努力したいのにしたくない。
 頑張りたいのに頑張りたくない。
 遊びたいけど遊びたくない。
 仕事をしたいけど、したくない。

 どうしてこんな風に矛盾する思いを抱いていました。
 どれも二つの感情がせめぎあっている。そんな状況です。

 「努力したいのにできない」ではなく「したいのにしたくない」 
 私の場合これは言い換えると「努力したいけど、遊びたい」です。


 どちらもしたい。どちらも大事。どちらも捨て置けない。そう思った時。

 これまで教わってきた正しさで言えば、遊ぶことではなく努力することが正しいのです。
 その正しい。ができない。
 遊びたいという正しくない欲求が勝ってしまう。
 
 そうして「努力したいけど、したくない」
 となり
 「正しいことをしたいのに、それができない」 
 となり 
 「正しいことができない私には価値がない」
 となってしまった。


 努力できる人が羨ましい。
 なぜ努力でいないのだろう。
 なぜ正しく生きられないのだろう。

 それは、自分がダメだから。自分には価値がないから。自分は生きている価値がない。

 そんな風に自分を追い詰めてしまいました。


例えば「継続」
 一つのことを続けなくてはいけない。
 それが絶対的正しいのだと思っていました。 

 就活のとき、長く続けたことをアピールするのは、粘り強い。ということにつながるからよい。と言われました。
 でもそんなものなかった。
 本当は続けていたことがありました。
 でも続けていても、それが嫌々で、なにも実力がともなうこともなく、ただ「やめるな」と言われたからやっていた。それだけ。

 なんの成果も出せなかった。
 何一つ努力しなかった。
 正しいことをしてきたわけではない。
 そう思っていたから、続けてきたと言えなくて。

 そんな私はダメなのだと、思っていました。

例えば「休む」

 精神的な病気になった時。

 私はそれが「働く」という正しいことができなくなる。という事だと理解しました。
 そして心の底にあった「働きたくない。遊びたい」という悪しき本心が勝ったのだと思った。


 「私は悪い子だ」「社会にとって価値がない」 
 もし病院に行ったら、休まなくてはならなくなる。働くことができなくなる。
 正しい生き方ができなくなる。価値がなくなる。
 
 だから病院に行ってはいけない。

 そう思って1年以上我慢した結果、取り返しのつかないレベルまで悪化してしまった。
 

 馬鹿でした。
 でも当時の私にとってはそれだけが真実だったのです。


 それでもどうしようもなくなって病院に行きました。


  カウンセリングを受けました。


 「働かなくてはいけない」と言えば 「働かないで趣味をして生きている人は悪い人か?」と問われました。
 私は違うと答えました。

 「頑張らなくてはいけない」と言えば 「頑張るとは体を酷使することか?」と問われました。
 私は違うと答えました。
 
 「でも、自分はそうしないと認められない」と答えていました。


 不思議なことに、他者の価値観、大衆の価値観に沿って生きているのに、他人の「頑張ってる」「努力している」「才能がある」「能力がある」「よくやった」というすべての言葉を私は否定してきました。 
 それは他者の一言よりも、子供のころから刷り込まれた「絶対的正しさ」にのって生きていない、生きられない、できない自分は「悪だ」という根底があったからなんです。

 すでに正しくない私は、すでになにもできない私には「よくやった」も「お世辞や建前」あるいはその人が「いい人」なだけだと思っていました。 

 ある意味だれも信用できなかった。

 絶対的社会の正義の前には、一人の言葉など無力でした。


 ですが先日、その一人の言葉が私を救ってくれました。

「続けなくてもいいんじゃない?」


 たった一言でした。

 「物事を長く続けることができる人」
 
 「たくさんの趣味をもつ人」
 
 「なにも趣味はなくても人生を楽しめる人」

 いろんな人がいて、どれも間違っていないのだ。

 そうと言われた時、私は世界がひっくり返ったかと思ったんです。

 ずっとずっと、長く続けることが正しいと信じてきた私にとって、まさに晴天の霹靂。

 これほど驚いた言葉はありませんでした。


 そして気づいたのです。
 私が今まで持っていた価値観は、決して普遍的なものでも、絶対的なものでもない。と。


 今は「やりたい。と思っていたことすべてに挑戦することが、働くことよりも大切だ」
 その言葉を信じて、そして確信を持って多くのことに挑戦しています。
 目標は「継続を目標にしない」です。
 難しいですが、これが私の今の目標です。

 同じ人はいません。
 同じ価値観の人もいません。
 絶対的な価値観など、他者でも大衆でも親でも自分でもない。
 あちこちに価値観があって、すべて間違っているわけではないのです。

 それでも同じようにもし悩んでいる人がいたなら。
 一度でいいです。


 自分が信じてきた価値観が全く逆の世界があったらと、考えてみてください。

 その世界は間違っていますか?
 その世界は悪ですか?


 どうか自分を憎まないでください。

 

 こんな言葉で締めくくるのも変ですが。
 これが私です。
 this is me.  

※今回の記事は小説家になろうにて掲載してしまっていあるのと同じです。