天正3年(1575)5月21日は長篠設楽原の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を破った日。かつて3千丁の鉄砲隊が三段撃ちで武田騎馬隊を打ち破ったといわれたこの合戦の様子も最近では随分と違って語られる。ただ大量の鉄砲が使われ武田氏で信玄以来の多くの重臣が討死した影響は大きかったのでは。
天正3年(1575)5月20日は信長が家康家臣・酒井忠次に武田方の鳶ヶ巣山砦奇襲を命じた日。長篠城救援に来た織田徳川連合軍が設楽原へ着陣。忠次を大将とした別動隊4千編成され20日深夜に豊川を渡河し迂回。翌朝の砦の陥落が設楽原に進んだ武田軍本隊の退路を脅かすことになったといわれる。