ラーメン食べながら、論点潰ししてるのは世の中広しと雖も私くらいなものだろう。受験勉強してた頃も朝英単語十分、寝る前に十分やって英語に備えていた。数学は昼飯で証明一題。夜は計算練習。梅原大吾さんは時間をちょっとずつ増やして継続する学習の意義を問うていたが、正しくその通りだろう。
堀江貴文さんが、学部に行く必要ないと主張。大学の先生は教え方が一番下手とも。先生の書いた本読めば、一年間かけなくても一週間で済むと一刀両断。そうなると学部で学ぶのは一体何なのか??だが、偉そうに言うと、本ですら読みづらい内容も多く、口頭でも文面でも伝えられていないよ。
所謂高学歴がドヤってどうこうという議論は一部の虚構だし、答が一つではない大学入試はそれぞれが各々の答えを見つける為、ベストを尽くす。競争は実社会の縮図で、それに異を唱えるなら、自分で社会を変革するしかない。だけど、一度負けたら、二度とリングに立てないという仕組みなら無用の長物だ。
経済学を学ぶ意義は百万通り唱えられてきたが、肝心の受け手が学ぶイメージを捉えるのに苦心しているのを見ると、やはり高校の新指導要領に必要なのは歴史総合よりも小論文・政経と既存の科目の現代におけるバージョンアップであると思う。特に小論文のリテラシーの素養を鍛える事は急務なはず。
待っていろよ、理科大・・っ!!覚悟をもって大学進学目指す人がした決意だ。わざわざYouTubeのコメ欄で宣言するくらい、気合がのっている。後わざわざTwitterや色んなSNSで、春から~大と唱える留年すんだろうな系の学生も勿論応援してる。大学受験が全てを決めると妄信するね。
偏差値という概念を失くせば、より公平公正な競争になって妥当になるという意見がある。その場合仮に偏差値を失くしても次の競争基準が出てくる。そんなとき人格や容姿が主たる動機となったら、もっと被用者は傷つく事になる。偏差値だったら、ああそうかそういう嗜好ねと見切りも付けられる。
通学という時間的コストを端折り、緻密な指導や議論、資料へのアクセス、家に居ながらでも端末で必要な文献を漁りDLし、必要ならそのデータをコンビニでプリントアウトしたりする。学校で集まり、一緒に座学する体感程濃密なものは確かにないし、学生のそういうイメージをTVやドラマは喧伝する。
すぎやまこういちさんが亡くなられてゲームの一時代が幕を閉じ、感動が伝説となった。ドラクエは決して説教を垂れてこない。ましてや、プレイヤーの価値観をも受け入れる。そんなゲームにおけるコミュニケーションがオフラインで完結されても、確かに人物が生きている感を出しているのだ。
仕事と趣味の両立を考えたとき、必要ない事はとことん省くことがどんだけ効率的か思い知ったな。格ゲーは面白い。こうなったら俺も一日24時間のリミッター外すしかないわ。それやったの受験生の時以来だけどな。よし、待ってろよウルダイ。
財政学の単位が取れなかったのは明らかに俺がマクロが苦手だったからだ。経済学部じゃねえけど、それでも俺は財政学、取りたかったんだ。そうじゃなきゃ、国の財政政策に物言えないんじゃないかと思ってな。青いな。
一時期教養番組が席巻してたとき、多くの東大生・京大生タレントが騒がれた。特に京大の宇治原さんは受験の導師として祭られ、多くの紙面に載った。だがしかし、教養が一過性のものとされ、勉強の動機付けが世情に翻弄されるようでは、足腰のしっかりした教育の土台は築かれないだろう。教養を文化に。
何故俺がしきりに大学受験について呟いているのかと申すと、それだけフェアな競争だからだという事と、答えが一個ではない部分に惹かれているから。人によっては第一志望に受かるのがマストと思い込むだろうが、実際落ちても次がある。無論フェアといえども家計に依る部分もあるが、努力は大きい。