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◆主体と客体、世界と言葉と私の関係を考えてみると、世界も言葉も私以前から存在している。(奥底たる生命をひとまず置き)私の体は世界たる外部由来の自然素からできており、思考や思いは言葉等外部由来の記号から織り成されていく。すべて外部由来であるのに、線と線が交わる点のように私がある。

◆法律の実務家としては「方法論的分節(主義?)」といういき方が最もしっくりくるようだ。無限の内包を有する流動する現実のなかで、区別と連結を踏まえた分節を前提に、外部の諸項の接続秩序に内部のそれで対峙する。そのため、「かのように」「みなす」やレトリック論とも親和的となる。

◆世界は本来的に分節線のない流動する連続体であるから、これを言葉で扱う難しさに仮現実がよく示されている。つまり一般の通念に反し、虚構の方がむしろ言葉で扱う対象として確固たる輪郭をもつ。想像であるから、時を固定し分節線をきっちりと引ける。ただしテクストの多くは両側面を複合している。

◆仮現実の一側面をイメージ的につかむには下記動画がよい。 動的平衡ロゴmovie https://www.youtube.com/watch?v=FEPxkPvpcI4

◆なぜ対抗する通奏低音が必要となるのか(対抗は二項とは限らない)。それは、生きているこの世界が仮現実であり、流動する複雑な事物を鋭くつかみ、豊かに認識表現するためには、一様な接近方法ではとても迫り切れないからである。優れた文学にポリフォニー性が共通してみられる理由がここにある。

◆仮現実の一側面.ハムレットが言う。アレグザンダ大王の亡骸が土塊となって粘土と化しそれがビール樽の栓となる(シェイクスピア/福田恆存訳『ハムレット』190頁)。人は仮に和合している今を固定してそれを現実と捉えている。実際は捉えようした瞬間にはすでに対象は認識をすり抜けている。

◆取り巻く世界現実が人に迫り、人がこれを認識して意味を与え返す。客観事物と意味の混在という点ではこれを「複合現実」と呼び、現実認識の裁ち直し、意味の新編成を行う可能性という点ではこれを「仮現実」と呼ぶことができるだろう。

◆現実を掴むための資料や証拠の捉え方について、素朴実証主義(開かれた窓)でもなく懐疑的相対主義(妨げる壁)でもなく、徹底吟味を要する「歪んだガラス」と捉えるカルロ・ギンズブルグ教授。構築的作業を不可欠としつつ現実原則を堅持して対象に迫ろうとする。仮現実アプローチに類似するか。

◆現実とは厳密には仮現実(かげんじつ)である。これには、狭義の現実と仮構現実があるが、程度差によってグラデーションを成している。現実の対極に虚構があるが、仮構現実とは程度差のグラデーションを作る。つまり、他者との共約性・普遍性の程度差として、これらすべては同一平面上に並ぶ。

◆仮現実(かげんじつ)(1)言葉という仮分節認識体系により対象を捉えるのであるから、世界は仮現実と表現すべきものである。仮であっても「現実」であるから通り抜けようとしてもぶつかる何かがある。しかし「仮」であるから現実認識の裁ち直しが可能となる。ここに人間の自由なる生の基礎がある。