慶長4年(1599)1月19日は四大老・五奉行が使者をつかわして家康を詰問した日。家康は前年死去した秀吉の法度に背いて伊達政宗ら諸大名と勝手に婚姻関係を結んでいた。細川忠興や加藤清正らが奔走し和解の誓紙が交換されたため一触即発の危機は回避されたが家康の行為を容認する形になった。
慶長3年(1598)8月5日は伏見城で病床にあった秀吉が五大老に秀頼を託す遺言状を示した日。家康ら五大老と三成ら五奉行に誓紙の交換もさせた。秀頼の傅役とした前田利家邸に前月に諸大名を集め血判起請文をとったがこの日改めて秀頼の将来を託した。この半月後幼い秀頼を残し秀吉は死去する。