人生は、編み目のようにいろんな機会が巡らされている。無限の中のそれに気づけるのは、きっとほんの一部。今この瞬間も私たちの知らないところで、いろんなきっかけがきらりと光っている。その煌めきに気づくことを、私たちは「好機」と呼ぶ。 その星は気づいたその瞬間から、物語として動き出す。
寒くなってきた冬のお供、お気に入りの電気式湯たんぽ。これまで、いったい何度の冬を一緒に越してきたことか。かわいい見た目なのに、しっかり長時間あたたかくいてくれるので本当に助けられている。 寒さや暗さは、夜と相性がよすぎる。自分自身を優しく朝に導くためにも、こういう仲間は有用だ。
朝から最高に良いお天気で、存分に太陽を浴びた。良い連休だったなあと、お日様の下で三日間のことをゆっくり思い返しながら洗濯物を干す。私はやっぱり周りの人に恵まれていて、かけがえのない素晴らしい人たちに、生かされている。 運も感謝も丸ごと抱きしめて、明日からまた気合い入れていくぞー!
存分にいろんな人に会い、たくさん話してたくさん笑って、別れ際に惜しみなくハグをして、有意義で大切な時間を過ごしている。これを幸せと言わずして何と言うのか…。 「秋休み」と「三連休」の言葉に甘えて、いつも日曜にしているショートショートの投稿を、明日月曜に振り替えさせていただきます🍂
外出する用事があったので、それに合わせて久々に外での作業。十一月も真ん中に来ているのに、街をゆく人の装いが私の知る「冬」からとても遠くて、まるでカレンダーと実世界にタイムラグが生じているような気がするな。 …それ、ちょっと面白いな。何かに使えるかも、なんてすぐにメモを開く職業病。
すべきことは山積みなのに、どうにも気が乗らない日なんてのも生きていたらそれなりにあるわけです。そういうときは潔く「何もしない、をする」という選択をするのもアリなのだと、大人になってから理解しました。 …ただこれがまた、実際には環境も選ぶし勇気も要るし、なかなか難しいんだよねえ!
楽しいと思えることを、楽しめる分だけ楽しむ。娯楽に溢れているこの世界を、上手に味わっていくコツの一つな気がする。 二兎を追う者は一兎をも得ず、間違いない。 「大切なもの」は、この腕に抱えていられる分だけでいい。自分が大切にし続けられる分だけ、大切に思い続けられる分だけで充分。
知らないことに、新しく触れる。いくつになってもわくわくする。そのわくわくを教えてくれるのが、かつての自分の教え子となると、その感慨もひとしお…。 いろんな気持ちで胸がいっぱいな一日。用事が終わった後、嬉しくて数駅歩いて帰ったらすっかり靴擦れしていた。それも含めて良い一日だった!
自分の中の「大切」に触れるたび、それが一体どれだけ自分の中で重要なものかを思い知る。定期的に「大切」に触れることは、自分の価値観を見つめ直すという意味で、有効かつ必要なことかもしれない。 ずっと大切なものも、かつて大切だったものも、間違いなく自分を構成する揺るぎない「大切」だ。
土地の匂いが自分に合う感覚を満喫する。ここには私を脅かすものが、ほぼないという安心に浸る。空は広く嫌な音の少ない空間で、ひたすら「夏」に集中する。多方面に広げすぎたアンテナをゆっくり吟味して少し畳み、丁寧に磨き直すような時間。 私はこの空間と、そこに生きる人たちを心底愛している。
眩しい日の光の下で、緑いっぱいの空間に身を置く。滝が落ちて砕ける様子を眺めながら、降るような蝉の声と、波打つ風に擦れる木の葉の音に、静かに耳を傾ける。じわじわ額ににじむ汗を拭きつつ、全身で「夏」を浴びる。 普段生きている場所よりずっと過ごしやすくて、ずっと生きやすい気が、する。
今日の気になるワード【罪悪感】 罪悪感…これ、実はとっても癖者です😅 本当は自分が願った事が叶って現実になっているのに 罪悪感が覆い被さって、こんなの望んでない!! って思っちゃってるの😅 その罪悪感、一旦外してみて。 なーんだ、全部叶ってるじゃん ってなるから。
知らない土地に行くたび、この世の広さを思い知る。その瞬間、自分の未熟な挑戦も無知ゆえの悪あがきも、全てが際限ある人生のただの一コマに過ぎないことを「理解する」。 これまで幾度となく味わったことのある感覚のはずなのに、その感動は都度寝ぼけた私の心を揺り起こす。たくさん青を見た一日。
先日出会ってから、何だかとても気に入っている可愛い仲間と共に。最近の作業見守りの仕事をしてもらっている。追いすぎると疲れ果ててしまうので、「万事ほどほどに」を合言葉に、ぼちぼち作業を進めていく。描きたい世界が広すぎて、すぐ言葉に溺れそうになるので、足元を確認しながら着実に前へ…。
磁気嵐の都合とやらで、日本でもオーロラが見える場所があるとか。私のいる場所からはきっと見えないとわかっていても、空を見ることが好きだから、ついつい北の空を見上げてしまう。 宇宙規模の出来事に、小さな人間ができることなどない。まるで人生みたいだ!なんて、取り留めのないことを思う夜。
お気に入りの靴で歩く。ここ数日たくさん出歩いて、ここぞとばかりに会いたい人たちにどんどん会っている。その度、言葉にしきれないほどのものをもらう。 私には、心の底から「この人の幸せは私の幸せだ」と思える人が本当にたくさんいるのよ。ねえ、これがどれほど幸福で、ありがたいことかわかる?
万事において、「時間」には限りがあって、良いも悪いも楽しいも辛いも、それぞれ最後はどこかにたどり着く。その有限のときを、泣いて笑って怒ったり歌ったりしながら、私たちは歩いている。忙しすぎると、その自覚がなくなっちゃうんだけどね。 こんなにも、眩しく光っている瞬間だらけなのにね。
いろんな縁とタイミングのもと、今なお繋がっている人たちと久しぶりに会う。あのときは…なんて、共通の過去を辿って「あの頃」の延長上にある「今」を一緒に見つめる。そんな時間のなんと感慨深いことか。 何でもいいよ、大丈夫。この先何があったとしても私はきっと、死ぬまであなたたちの味方だ。
普段とは違う環境に身を置く。普段とは違う物を見る。それだけで、心のアンテナの角度がぐっと変わるのが解るし、キャッチする情報の鮮やかさも変わる…。 もの凄く当たり前なことだけれど、日々を歩くのに必死すぎると忘れそうになる。そんなことを、今一度拾い直すような時間を過ごした一日でした。
先日行った旅の記録を振り返りつつ、私は私の日常に戻る。非日常の中で感じたことや考えたことを、できるだけたくさん箇条書きにして文字にして残す。いつか「制作のタネ」に昇華するため、記憶を記録に変える作業を進める。 匂いや温度の感じられる言葉を使いたいというのが、最近の私のこだわりだ。
春の気温差に飲み込まれ、すっかり頭の中がふわふわになっている。そんなこともあるかと、温かい飲み物を飲んだりちょっと甘いものを食べたりして、自分の機嫌を取る。 ただ生きているだけなのに、世の中にはまあ刺激の多いこと…。社会から少し距離を置いて、溜まったドラマをのんびり観る金曜の夜。
波の音を聞く。夕暮れがじわじわ夜に塗り替わってゆく。「何もしない」を、存分にする。上手く言えないのだけれど、何事もわかったつもりになってはいけないなと、自分の小ささと無知さを改めて知る。「知ること」は、「知らないことを知る」というところから始まる…。 世界は広い。私は、小さい!
天気が悪いと気分は上がらず、天気が良いと飛び交う花粉に負ける…。春とは、果たしてこんなにも生きにくい時期だっただろうかと、目を擦りながら今日を歩く。 相変わらずの寒暖差や強い風に何とか抗いつつ、風邪か花粉かわからないくしゃみをして、ひたすら作業をした日だった。 お疲れ様でした!
さくら。もうそろそろ、ひと段落つく頃合いかなと思いながら、相変わらず「見かけたら連れて帰る」を繰り返している。毎年楽しみにしている、お団子屋さんの葉入りのさくら餡のお団子。ああ、本当に美味しかったなあ…! こうして私は、今年もたくさんの「春」をしっかりと噛み締めて、歩いていく。
とても暖かい一日だった。外の温度や、風にくすぐられて出るくしゃみに春を感じる。ああ、冬が終わっていくなあと何となく名残惜しい気持ちにもなる。私は多分、夏より冬の方が好きな人間なのだと思う。 季節に置いていかれないよう、深呼吸をしてとりあえず歩き続ける。そんな感覚で日々を辿りゆく。
春が来るまでに、あと何回くらい寒くなって暖かくなってが繰り返されるのだろう。そんなことを思いつつ、熱いお茶を淹れてゆっくり飲む。お腹の真ん中を、じんわり温めるような想像をする。 寒暖差に振り回され過ぎないように、いろんな情報を耳に入れ過ぎないように。私は私の「今日」を静かに歩く。
雲間に覗く青空の下で、降る雨の音を聴く。理屈はわかれど、お天気雨はやはり不思議な気分だ。 ここ数日、適当に頭に放り込んでインプットしたものを、そっと広げて丁寧に入れ直す。思考することをやめたら、時間に置いていかれるような気がするので、とりあえず止まらず進み続ける。そんな、一日。
日常にあるささくれが気になる日は、美味しいものをゆっくり食べるに限る。遅めに起きた朝、ブランチに食べた分厚いトースト。しあわせの味。 世の中がざわめいても、私の人生は私のものなので不必要に騒がず、大きく根を張ってしなやかに生きていきたい。落ち着かないときこそ、心がけたいこと。
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言葉を言う前に、1人会議する。俗に言う“葛藤”だ。