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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
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2020年7月の記事一覧

出演者を縁故によるのではなく、公募に踏み切った。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十四回)

JOAK  当時、放送部は、文藝、教養、報道、業務の四課に別れていた。  矢部のすすめによって、嘱託から、文藝課長となった万太郎の仕事ぶりは、昭和三十五年、「放送文化」に発表された文章によってうかがい知れる。  課員は七人。石谷勝、内山理三、小林徳二郎、服部善一、大塚正則、飛鳥常矩、青木正。  石谷は、國民新聞の演藝記者、内山、小林は玄文社・編集者出身。  「千軍萬馬往来の腕ッこきぞろい」で「番組の起案、取材、編輯、謝金の形状、出演者に對する交渉、送迎、應接。」をひとりひ

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芥川龍之介、売文に拍車がかかる最後の日々。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十三回)

 昭和二年、一月四日、芥川龍之介の姉ヒサの嫁ぎ先、西川豊の芝区南佐久間町の家が失火。  西川は保険金目当ての放火ではないかとの嫌疑を受け自殺した。  龍之介には、妻とふたりの子供があった。養子でありながら長男として、養父母と叔母、ヒサの子をあずかり、八人の扶養家族を養わなければならなかった。  西川の死によってさらに三人の家族が増えた。故人は年三割の利息がつく借金まで残した。  売文生活に拍車がかかる。  精神の病をかかえながらも、文を書き続けなければならない。  三月は「

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店をたたんだ父の一家は、子供のなかで唯一の成功者であるじぶんを頼ってくる。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十二回)

 東京中央放送局の矢部謙次郎が、万太郎に文藝課長に就任しないかという口説き文句は、水上瀧太郎らに社会的にも肩をならべたい万太郎の隠された願望を解き放ったのである。 芥川龍之介の死  対談の発言を読み解くと、水上との関係と私生活の乱れが浮かび上がるが、作家生命を失うかもしれないこの決断は、後年の対談で苦笑まじりに語られるほど単純なものではなかった。  「放送局に入ってから」は、昭和六年十月、東京日日新聞に連載された随筆である。東京放送局に入った二ヶ月後に書かれたこの文章は

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賢兄は、自ら飼犬の態度に学ぶと繰り返す愚弟の屈折を知らない。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十一回)

 小説「春泥」に描かれた新派のみならず、演劇の世界の人々との交友を万太郎は深めていく。  まっとうな社会に属する水上にとっては、深酒に溺れ、芝居の話に熱中する彼らは、無頼の徒と映ったかもしれない。  ドウガルの讃美者はすこぶる多く、久保田万太郎君もその一人で、あたしはドウガルの態度を學ぶよと、又かと思ふ程繰返す。  但し飼主の側から見ると、この人とこの犬では、まるつきり品行が違ふ。久保田さんは、あたしは酒は嫌ひですと、いはなくてもいゝことをいひ、又實際私のやうに晩酌を楽む風

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イヤなやつでいい小説を書くやつと、立派な人間でへたな小説を書くやつと、君はどっちを取る? (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十回)

 今井達夫は、その貴重な評伝『水上瀧太郎』(フジ出版社 昭和五十九年)のなかで、昭和八年ころ、水上邸で行われた水曜会の席で、不意に放たれた万太郎の発言を記憶に刻んでいる。 「ねえ、今井君、イヤなやつでいい小説を書くやつと、立派な人間でへたな小説を書くやつと、君はどっちを取る?」  人格的には、とてもかなわないと思いつつも、作家としては私の方が上だと万太郎は自負していた。  水上の父は明治生命の創業者、澤木四方吉は新潟の素封家の生まれ、小泉信三の父も学者であった。  明治

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収穫期を迎えた創作活動は、この激務によってさまたげられる。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十九回)

7 芥川龍之介  昭和六年八月、四一歳の万太郎は、東京中央放送局(NHKの前身)文藝課長に就任。収穫期を迎えた創作活動は、この激務によってさまたげられることになる。    小説家高見順との「対談現代文壇史」(中央公論社 昭和三二年)で、東京中央放送局に入った事情をみずから語っている。  初出は、昭和三十一年七月号の「文藝」。六十六歳となった万太郎は、十八歳年下の高見を相手にざっくばらんな調子で過去を回想する。  ええ、そのうち、嘱託、クビになったんです。  そうしたら、改

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幸福のなかで、わたくしはかうした小説を書いたのだ。・・・・・・かうした不幸な小説を・・・・・・(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十八回)

 万太郎の「古き浅草」とは、待乳山から望む風景ばかりではない。下町の旦那衆がかたくなに守ってきた矜持のありかたでもあった。  彼はじぶんの作品のなかに、滅びようとしている幻を封じ込めようとした。それはじぶんじしんのなかにも眠っている蛮族の血を自覚していたからだ。かつて憧れ見ていた大人たちのようにはじぶんは生きられない。  もし、じぶんのなかの「古き浅草」を守りつづけるのだとしたら、作中の「わたし」のように逼塞した生活を選ばなければならないだろう。  けれど、万太郎は作家

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しぐれ氣味の、底冷えのする、しずかな、しみじみとした、何となく人戀しい日。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十七回)

 小説「寂しければ」には、上質な舞台劇のせりふを思わせるやりとりあ る。  仮に名優といわれるほどの役者によってこのくだりが上演されるとしたら、ことばの上には現れないゆたかなこころの揺れが観客に伝わることか。  成熟を見せるのは会話ばかりではない。この一節に続く風景描写もまた、詩人としての万太郎の素質をよく物語っている。  建仁寺にさしてゐた日かげもいつか消えて、庭のうへは、鶏頭も、とび石も、燈蘢も、何のことはない、枯々としてうすら寒いなかに、あきらめてもう首をさしのべて

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實は、去年、これのおふくろが亡くなりまして・・・・・・(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十六回)

 渡辺町時代に書かれた代表作ほひとつに、中央公論に断続的に連載された小説「寂しければ」がある。  死んだ妻の命日に息子を連れて寺まいりにでかけた「わたし」は、帰りに食事に寄った根岸の「笹の雪」で、昔なじみの五秋さんに出合う。  かつて小梅の宗匠のところで俳句をともにしていた仲間である。五秋さんから、拈華さんの話がでる。宗匠は、露心庵の跡目、名跡を継ぐものとして拈華さんを考えていた。  しかし、拈華さんは、吉原の仲の町にいたお女郎と大阪に出奔したという。  五秋さんは「わたし

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ほんとにわたしは、庭に立つて、退屈しなかつたのだ。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十五回)

 水上瀧太郎の援護によって、小説「末枯」が文壇にふたたび入れられ、長いスランプから抜け出した万太郎は、この渡辺町の家で小説家としての収穫期を迎える。  昭和十八年、「婦人公論」に発表された随筆『無言』には、新しい私を発見した驚きが生き生きと回想されている。 「が、さうはいつても、その渡辺町の二年あまりのあけくれは、わたしの一生でのいい生活だった。うそのない生活だつた。美しい生活だつた。  わたしはわたしの一日の大半を、二階のその机のまへを退かなかつた。それほどわたしは、仕

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市外日暮里渡邊町筑波臺一○三二番地(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十四回)

 関東大震災に遭い、北三筋町の家を焼け出され、牛込區南榎町に仮寓。  大正十二年十一月には市外日暮里渡邊町筑波臺一○三二番地に家を持ち、妻京、大正十年に生まれた長男耕一とともに、はじめて親子三人の生活に入った。  万太郎三十四歳の秋である。 「そこに移ったのは六月の末の、七月から八月にかけて、その年、いつもより暑さのきびしかったにかゝわらず、わたしはいうまでもない、女房も、子供も、決して、東京を見捨てなかった。それほどわたしたちは、この家の、廊下を取卷いたその庭の広さをよろ

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文学者になったのも、失恋も、結婚も、うちを持ったのもなりゆき(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十三回)

 取引先や職人が頻繁に出入りする商家で、跡継ぎでもない総領息子の居場所はない。  まして、経済力もなく二階に間借りするようなかたちで、花柳界から嫁にきた京の肩身の狭さは容易に想像がつく。  奉公人のいる商家では、夫婦水入らずの時間は、ほとんどなかったろう。

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秋風や水に落ちたる空のいろ (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十二回)

 大正十二年九月、浅草で震災にあひたるあと、本郷駒込の樓紅亭に立退き、半月あまりをすごす、諸事、夢のごとく去る。  秋風や水に落ちたる空のいろ  関東大震災が東京を襲う。  駒形町から転居した北三筋町の家も焼け出される。  天災は、人の人生を大きく揺るがすばかりか、価値観を転倒させかねない。  東京市役所編『東京震災録 前輯(ぜんしゆう)』によれば、9月1日午前11時58分、関東地方南部 を襲った大震災の被災者は、約340万人に及んだ。死者9万1344人、行方不明1万3

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殆ど意志を所有しないと云ってもいい位、気持に執する人である。はっきり云えばむら気なのだ。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十回)

 美術史家の勝本清一郎は、明治三十二年に日本橋南茅場町で生まれ、大正十四年から昭和二年まで「三田文学」の編集にたずさわり、万太郎と水上を身近に観察できる場所にいた。  勝本は『座談会大正文学史』(昭和四十年 岩波書店)のなかで、酒席での万太郎と水上を比較し、(万太郎は)「長い間の印象として僕は、躁鬱病気質の人と感じていました。水上さんの方は、これくらい酒ののみっぷりの立派な西洋式の人はなかった。」と語る。  しかし、座談の終わり近くに勝本は、水上について語り、「人間として

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