マガジンのカバー画像

久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

54
今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
マガジンのディスカウントを行います。1280円→880円です。『久保田万太郎の現代』(平凡社)の刊…
¥880
運営しているクリエイター

2020年6月の記事一覧

松竹が新派へ対する冷ややかな態度を憤慨するあまりに、酒がのめたのだと笑った。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十五回)

 大正・昭和期に活躍した新派の俳優 柳永二郎は、『新派の六十年』のなかで、新派の演目の内容的な観点からの分類を行い、「八」として新聞小説、文藝作品脚色時代をひとつの項目にあげている。  その代表的な演目として、広津柳浪『目黒巷談』、大倉桃郎『琵琶歌』、尾崎紅葉『金色夜叉』、小栗風葉『恋慕流し』、鏡花『婦系図』『通夜物語』があり、「九」の項目にあげられた花柳情話時代にも、鏡花『日本橋』が現れる。 「創作戯曲には、その(新派の)創始期から発見に努力を重ね、その得られる限りは各

¥100

初代喜多村禄郎は、明治四年、東京、日本橋の薬種商の子として生まれた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十四回)

 万太郎がはじめて新派の喜多村禄郎と会ったのは、大正四年、鏡花の『日本橋』が、伊井蓉峰の葛木晋三、喜多村禄郎の稲葉屋お考の配役で初演された本郷座の楽屋である。  鏡花はその前年、小説『日本橋』を、小村雪岱の装幀で本郷曙町の書肆千草館から上梓している。  刊行される早々、喜多村は上演の許可を鏡花に得た。  脚色にあたったのは、のちに歌舞伎作者として一家をなす真山青果だが、「生理学教室」の場にこだわりを持った鏡花は、みずから東京帝国大学医学部に調査にでかけ、台本に朱筆を入れ

¥100

「さふいふ若いかくれた読者のあることを認めて頂きたい-----先生のために先生の芸術のために」(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十三回)

 万太郎が鏡花に会う機会は意外に早くやってきた。  瀧太郎留学の翌年、明治四十五年十月、俳句結社ホトトギス主催の観能会が水道橋の喜多能楽堂であった。  鏡花を見かけた万太郎は、いあわせた生田長江に頼んで紹介してもらったのである。  万太郎の内気な性格からしても、何か理由がなければ紹介の依頼もできずに、遠くから憧れのまなざしをそそぐばかりだったろう。  けれど、万太郎には、意を決して紹介をたのむための、よき口実があったのである。事情を話し、 「一度お宅へお邪魔したい旨」を伝

¥100

番町の銀杏の残暑わすれめや(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十二回)

 第五章 泉鏡花に入ります。写真は、鏡花の旧居です。この家で亡くなりました。 番町の銀杏の残暑わすれめや 万太郎  何処(どこ)かで会(くわい)が打(ぶ)つかって、微酔機嫌(ほろよいきけん)で来(き)た万(まん)ちゃんは、怪(け)しからん、軍令(ぐんれい)を忘却(ぼうきやく)して、 「何(なん)です、此(こ)の一銭(いつせん)は-----あゝ、然(さ)う  。」 と両方(りやうほう)の肩(かた)と両袖(りやうそで)と一所(いつしよ)に一寸揺(ちよつとゆす)すって、内懐(う

¥100

この祖母なかりせば。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十一回)

 万太郎はその作品のなかで、父、母、兄に対しては、肉親の情をいぶかしく思えるほど示していない。  追悼句さえも残さなかった。  例外は、祖母と早世した妹、最初の夫人の死後、身の回りのやっかいをかけた妹小夜子の三人である。    好學社版全集、第二巻の後記に、 「わたくしは祖母千代をうしなつた。大正六年の十月だった。・・・・・その祖母がわたくしにとつてどんな人だつたかといふことは・・・・いゝえ、どんな人だったかといふことを書こうとしたのがこの巻に収めた”妹におくる”である。この

¥100

この年、何にもしるすべきことなし、たゞ、もう、でたらめだつたのなるべし。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十回)

 家業の不振、執筆の行き詰まり、妹の死、友人たちの外遊。  万太郎にとって暗い日々に救いとなったのは、大正四年一月に、荷風、薫を擁してして結成した古劇研究会である。  万太郎は、古劇研究会の結成からは、ずいぶん時間の経過してからの文章ではあるが、 「まづ、木下杢太郎だの、長田秀雄だの、吉井勇だのといつた詩人なり戯曲家なりに呼びかけ、一方、楠山正雄、河竹繁俊、さては岡村柿紅といった演劇評論家を誘った」(「大正四年」)  と昭和三十七年、新橋演舞場で上演された『天衣粉上野初花

¥100

二十六七の時分、わたくしは、わけもなく日の光をきらつた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十九回)

 この年の十二月、演劇研究のために小山内薫は、シベリアを経てヨーロッパに向かう。出発前には、土曜劇場主催の送別演劇が行われた。 「『土曜劇場』を全くじぶんのものとして愛していた。西洋から帰ったら、一つあいつを自分の思うとおりなものにしてやろうと思っていた。」(小山内「新劇復興のために」)  が、旅先のパリの大使館で受け取った手紙には、土曜劇場の瓦解が報告されていた。  指導者不在のあいだ、ストリンドベリ『父』やイプセン『鴨』の上演が好評をもって迎えられ、有頂天になったあげ

¥100

いつの日かまた、じぶんの戯曲が舞台にのるときがくるのだろうか。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十八回)

 ある日、慶應大学で小山内薫は万太郎に声をかけた。 「『暮れがた』をやらしてもらうかもしれないぜ」  万太郎は本気にせず、 「どうぞよろしく」 といい加減な返事を返した。    それからしばらくすると、連絡があり、田原町の生家の二階で、女形の市川貞次郎が連れだって現れた主事の川村を迎えた。  世間話のあと、川村はスケッチブックを取りだし、「舞台をこうしようと思うのだが」と、大道具の見取り図まで書きはじめたのである。  明治四十五年三月に、小山内薫は、新派の俳優藤澤淺二郎が

¥100

花柳界は、虚実のかけひきのなかで、恋愛を商品とする。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十七回)

 小島政次郎の『久保田万太郎』は、「まだ、対(たい、ルビ)で芸者と遊んだことのない私達は、芸者に対して一種異常な憧れを抱いていた。芸者といえば、荷風の相手であり、十五代目(市村)羽左衛門の相手であった。 そこに何かロマンティックな幻影を勝手に描いていた。」と、当時の文学青年が花柳界に抱いていた心情を語っている。  年若くして華やかなデビューを飾っただけに、万太郎には、実社会の経験もなく、生地浅草と家業の職人の生態のほかには、身をもって知る世界はない。  題材に窮した万太郎は

¥100

しぐるゝや大講堂の赤煉瓦 (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十六回)

4 小山内薫     小山内先生追悼講演会  しぐるゝや大講堂の赤煉瓦 「感情(かんじやう)の動(うご)き方(かた)があまりに微弱(びじやく)で、読(よ)んでは受取(うけと)れても、演(えん)ぜられては受取(うけと)まいと思(おも)はれる憾(うら)みがある。」「観察(かんさつ)の態度(たいど)の如何(いか)にも『芝居(しばゐ)』を離(はな)れた所(ところ)のあるのを買(か)つたのである。 ----小山内薫『万太郎「Prologue」選評』  荷風と時を同じくして、森鴎外

¥100

某女と結婚せんとして果さず、憂愁かつ放縦の日を送る。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十五回)

 一方荷風は、万太郎をどんな目で見つめていたのか。 「三田文学(みたぶんがく)の諸兄近頃頻々(しょけいちかごろひんひん)として欧米各国(おうべいかつこく)に出遊被致候間手紙(しゆついういたされそろあひだてがみ)の代(かわ)りにと日常(にちじょう)の些事何(さじなに)くれとなく書留(かきとむ)る事(こと)に致候(いたしそろ)。」  にはじまる『大窪だより』は、大正六年にはじまる『断腸亭日乗』に先立ち、大正二年から三年の「三田文学」の周辺を伝えている。  『大窪だより』をたど

¥100

浅草といふ興味多き特種の土地を描く。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十四回)

 明治四十五年 二月二十五日には籾山書店から、久保田万太郎、初の著作集『浅草』が上梓された。  跋は永井荷風である。跋もまた、あとがきに劣らず無愛想な顔をしている。 「旧来のやり方ならば序文や跋は要するに高尚な御世辞であつて、いやに遠回しに言葉たくみにその著者と著作の事を称賛して置きさへすればよかつたのである。否それが即序とか跋とか称するものであつたのだ。」  といわずものがなの前置きがまず、くる。  続いて、美点をあげるのは新進の作家にとって不利であると書き、ならば

¥100