松竹が新派へ対する冷ややかな態度を憤慨するあまりに、酒がのめたのだと笑った。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十五回)
大正・昭和期に活躍した新派の俳優 柳永二郎は、『新派の六十年』のなかで、新派の演目の内容的な観点からの分類を行い、「八」として新聞小説、文藝作品脚色時代をひとつの項目にあげている。
その代表的な演目として、広津柳浪『目黒巷談』、大倉桃郎『琵琶歌』、尾崎紅葉『金色夜叉』、小栗風葉『恋慕流し』、鏡花『婦系図』『通夜物語』があり、「九」の項目にあげられた花柳情話時代にも、鏡花『日本橋』が現れる。
「創作戯曲には、その(新派の)創始期から発見に努力を重ね、その得られる限りは各時代に上演を見て居るのであるが、それが一つの時代をなすまでには至っていない」(『新派の六十年』)
このように、昭和二十三年の時点で、柳は書きつけなければならなかった。
その演目を眺めても、新派が古典として確立した演目の多くは、創作戯曲ではなく、原作のある脚色である。
万太郎は、歌舞伎に精通し、出発から小説とともに戯曲を手がけた新進作家である。
喜多村禄郎が、新聞、雑誌に発表された小説の劇化をはかる上で、万太郎を相談相手としたのは、自然な成り行きであったろう。
しかし、その尊敬の基盤となったのは、禄郎の鏡花に対する個人的な傾倒であるように思う。禄郎は、鏡花という偉大な才能を認めるだけの才知にめぐまれていた。
小説家を、狂言作者扱いにしてあなどることをしなかった。万太郎はその意味でも、鏡花から多大な恩恵を得ている。
緑郎の没後、一年して出版された『喜多村緑郎日記』(演劇出版社 昭和三十七年)は、大正十二年から昭和四年までを収めているが、久保田の名前が頻繁に見える。
たとえば、
五月三日 久保田に金田に落あふ事を約して、稽古を了へてから雨の中を行く。六時。そこで、三四本酒をふたりでのんだ。松竹が新派へ対する冷ややかな態度を憤慨するあまりに、酒がのめたのだと笑った。もう、客がみな去つたので、のみ足りず照の家へゆかうといふので、行く事になつて、小妻、まんや、玉菊、などをつれて出かけた。かなり酔ってゐたので、一時間あまりゐて、松川から皆におくられて、(芳町の人々に)久保田を送り帰宅した。
雨頗るはげし
夏めきし夜の雨音をたやさぬ
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。