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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
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2020年5月の記事一覧

文学に志す以上は父と子の争ひをしなければならなかった。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十三回)

 七月、万太郎は徴兵検査を受ける。  旧徴兵令、旧兵役法は、兵役の適否を判定するため壮丁の体格、身上などの検査を定めている。  毎年、各徴兵区において満二十歳になったものは、検査を受けなければならない。  ただし、万太郎は文部省認可の慶応大学に在学していたために「徴兵ヲ延期」することができたが、六月猶予期限が切れかけたので、ここで一種の賭に踏み切った。  徴兵検査は、その体格に応じて、甲種・乙種・丙種・丁種・戊(ぼ)種に区分され、甲・乙種が現役に適する者、丙種が国民兵役に適

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どうせお前には商売ができやしないんだから。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十二回)

 荷風の『すみだ川』は、幼なじみへの恋心にやぶれた中学生長吉をめぐる物語である。  夏の日盛り。俳諧師松風庵羅(「羅」の上に草冠がつく)月が、浅草今戸にすむ実の妹をきづかうところからはじまる。  小梅瓦町から、堀割づたいに曳舟通りをゆき、隅田川の土手にあがって、待乳山を見渡す。  竹屋の渡し船にのって、向河岸に渡り、今戸八幡神社にたどりつく。妹お豊は、常磐津の師匠をしながら十八歳の長吉を旧制中学にやって、将来を期待している。長吉の子供時分の遊び相手のお糸が芸妓にでることに

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泥沼のやうな中に、忽然咲きいでた目もあやな一輪の花(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十一回)

 明治四十二年、万太郎が入学した慶応の文科は、予科、本科を足しても学生はようやく七人か八人。屋根裏の物置のようなところが教室で、そこには三四人の本科の学生が薄暗い顔を寄せていた。  当時の慶應はのちに経済学部となる理財科が看板であり、一年に在学していた水上瀧太郎の『永井荷風先生招待会』が伝えるように、「生徒の大部分が、月給取りになつて、後々重役になる事を夢見て居た」学校である。  作家を志すものなど一人もいなかったのである。  水上自身も、明治四十四年七月小説『山の手の子

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ボヘミアンネクタイ若葉さわやかに(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十回)

 永井荷風は、万太郎について語っている。  それならば自分なぞが差出口をせずとも、久保田君は既に己の缺點の何たるかについては能く氣のつく性質の人である。由来多少たりとも自分を知つてゐる藝術家は自己の特徴の何たるかに對しては卻て甚不確實であるかはり、其缺點は大抵最初からよく氣がついてゐて、それでなかなかなか矯正して行く事のできないものである。 ----永井荷風『万太郎「浅草」跋』----  万太郎は、明治四十二年に慶應普通部を卒業しているが、この頃から同級の大場惣太郎(白水

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源之助わすれじの萩植ゑにけり(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第九回)

 明治四十二年、慶應普通部卒業。  父親は否応なしにすぐ店で働かせようと思っている。万太郎もまた、仕方ないと自分でも諦めていた。しかし、卒業間ぎわになると、周囲は騒がしくなる。  ある者は高等学校へ、あるものは、高等商業へ行く。  黙ってそれを聞いているのは辛く、高等工業ならば図案科に入ればまんざら店の仕事と縁のないこともない。父のお許しがでないとも限らないと考えた。 「しかし祖母(としより)や阿母(おふくろ)はさうとは考ひぇやいたしません。何処までも真面目に、上の学校へつ

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落第するや、そんな学校にゐるのはいやだから、慶應義塾の普通部へ転じた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第八回)

 明治三十九年、万太郎十六歳、府立三中(現東京都立両国高校・付属中学校)の三年から四年に進級するとき、代数の成績が悪く落第する。 「……なぜ代数の点がたりなかつたかといふことは、"しきりに文学に親しん"で、ちつともその方の勉強に身を入れなかつたからである。後に、ぼくは、この間のことを扱って、"握手"、並びに、"東京の子供たち"といふ小説を書いたが、そのとき、落第するや、そんな学校にゐるのはいやだから、慶應義塾の普通部へ転じた。」(万太郎「明治二十二年ーーー昭和三十三年・・・

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俳優の品行を改めさせ、劇界の弊害を改めた九代目團十郎(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第七回)

 源之助について熱をこめて語るのは、宮戸座時代、ひとりの観客にすぎなかった万太郎ばかりではない。  劇評家であり、従兄弟にあたる二代目猿之助に新舞踊の台本を提供した木村富子は『花影流水』のなかで、女形を「太夫」と呼ぶ習慣があったが、この尊称は、源之助で絶えてしまうのではないかと書いている。 「其の特色はいよいよ濃厚と成り、世人から『源之助張り』と愛称されるほど、他の追従をゆるさぬ独特の演技で、一種のすぐれた形を生み出し、大阪で生まれながら江戸ッ子のお株をとり、持ち味のイナ

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駕にゆられてとろとろと一杯機嫌の初夢に(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第六回)

 万太郎の脳裏に焼き付いたのは、『三人吉三』のお嬢吉三であり『妲妃のお百』『蟒お由』の毒婦だった。  『三人吉三』をのぞいては今日見る機会の少ない演目なので、説明を加えておく。  『三人吉三』は、安政七年に書かれた河竹黙阿弥の代表的な狂言で、今日でもときおり上演される。明治三十二年一月(万太郎九歳)と明治三十八年十二月(万太郎十六歳)、宮戸座で源之助はお嬢吉三を演じている。  本外題は『三人吉三廓初買(巴白浪)』。序幕として演じられる庚申塚の場「月も朧に白魚の かがりも

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脳裏に焼き付いたのは、『三人吉三』のお嬢吉三(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第六回)

 明治三十六年、十三才になった万太郎は高等科四年を卒業し、四月、父親の反対を押し切って、祖母の口添えにより本所錦絲堀にある東京府立三中(現在の両国高校)に入学している。  日清戦争後の国威高揚と人づくりを図る政府は、中学校の充実にちからを入れた。府立三中は、明治三十四年、京橋区築地にあった府立第一中学校分校を改め、創立された。  のちには下町の名門校とされ、一年上に後藤末雄がおり、二年遅れて芥川龍之介が入ってきた。芥川龍之介とは、府立三中、在校時に交友はない。  十二、三

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くッきりと、影あざやかに「夏」の極印。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第五回)

 祖母が万太郎に教えたのは芝居見物ばかりではない。  孫を供に連れての寺参りを欠かさなかった。  五日は水天宮さま、十日が金比羅さま、二十八日が不動さま。月づきの決まった日にお参りを重ねた。  そればかりではない。花見、潮干狩り、夷講(えびすこう)が、身近な年中行事としてあった。  それに加えて、浅草には祭りがある。三社祭である。 「そして、三社さまのおまつりのうはさがきこえはじめて、その水の匂は日に日に濃くなつた。そして十六日の宵宮、はやくも明日を待ちかねてのうき立つは

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遊びといえば、「芝居ごっこ」の立ち回り(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四回)

 祖父萬蔵は、万太郎が七つの歳に亡くなったが、すべてのことに影になり、日向になり心を配ってくれた祖母千代は、万太郎二十九歳の秋まで健在だった。  祖母は、「いへば男まさりの、料簡のしつかりした、ときにつむじを曲げると随分皮肉なこともやり兼ねなかつた人でした。----そのくせものゝいたはりもあれば、人付合いもよく、華奢つ気でしたから始終外をであるいていた」(『秋のこゝろ』)。  出歩く先は、まず第一に芝居と決まっていた。 歌舞伎座、明治座はもちろんのこと、手近の浅草座、常磐座

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一夜だけブックチャレンジ

 五月五日から季語の上では初夏と聞いて驚いた。  夏めいた日差しに誘われて、神保町まで歩いた。  東京堂書店が開いていると知ったからである。  早く用事をすませようと、電動自転車でいく旅とは視界がことなる。  水道橋のなかほどで立ち止まって、川面を見た。  東京都立工芸高校を振り返ると、神田川にまぎれもなく橋が架かっていると気がついた。アーチが連なり、みずを湛えていた。  今日は、六冊の本と一袋を東京堂で求めた。 ひとふくろというのは訳がある。東京堂と早川書房のコラボレ

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茶屋へゆくわたりの雪や初芝居 (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三回)

 万太郎は、明治二十二年(一八八九)、十一月七日、東京市浅草区田原町三丁目十番地に生まれた。  自筆年譜には、 「父は勘五郎、母はふさ。一人の兄、一人の姉があつたさうだが、ともに早世、名まへも知らない。祖父、萬蔵の代より、袋物製造販売を業とした。」 とある。  父、二十八歳。母、二十一歳。ふたりのあいだに万太郎が生まれたとき、祖父萬蔵は、五十八歳、祖母千代は四十五歳で健在だった。萬蔵夫婦は子供に恵まれず、千代の姪ふさに婿をとり、勘五郎とともに夫婦養子として家業を託した。

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月のエチュード

三日月の眉も器用に筆で描く 望月といえば太鼓の撥さばき 三島忌ももう遠くなり弓張月 如月とその名うるわし女性いずこ 夕月に願掛け歩く橋づくし