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「200字の書評」(365) 2024.9.25


残暑は相変わらずなれど、そこはかとなく秋の佇まいを感じる今日この頃です。

夜、窓からひそやかに聞こえるのは虫の音。そして中秋の名月。寝苦しい夜を癒してくれる、自然の恵みです。お元気でしょうか?暑さ寒さも何とやら、夏の疲れは出ていませんか?

さて、今回の書評は書店の危機を探ります。


小島俊一「2028年 街から書店が消える日」プレジデント社 2024年

衝撃的なタイトルである。誰もが薄々気が付いていたのではないか。いつかはこんな日が来ると。フッと目についた書店に入ると思わぬ出会いがあったり、本の醸し出す匂いと雰囲気に酔うこともある。人との待ち合わせにも好適であった。書店の危機を、関連する業界人の発言から引き出し、率直に感想と見解を加える。その距離感が絶妙。業界通のおじさんと就職を控えた甥っ子との会話という形で、切り込む空気感が読ませる。


<今週の本棚>

坪内祐三「日記から」本の雑誌社 2024年

古今の著名人の日記の断片を切り取り、それをネタに当時の世相に触れつつ社会時評を展開する。幅の広さと筆力豊かな坪内のエッセイ集と読むこともできる。明治人の学識の深さはさることながら、現代人の右往左往ぶりは面白い。

藤澤志穂子「駅メロものがたり」交通新聞社新書 2024年

たまに都会に出ると、駅によっては発車の合図にメロディーが流れる。一世を風靡した懐かしいメロディーに、なんでこの駅でこの曲なんだろう。そんな思いにとらわれることがある。情緒帳消しの、乗車をせかせるけたたましいベルよりはソフトで、落ち着いた響きが殺伐としたご時世では好まれるのかもしれない。各地の駅メロにまつわる縁を追ってくれた。鉄道マニアにはその地を思い出すきっかけになるかも。

柴田哲孝「完全版 下山事件 最後の証言」祥伝社文庫 2007年

戦後占領期の不可解な事件の代表格である。作家である著者は、この事件に祖父がかかわっていたのではないか、あの時代に何をしていたのかを探り始める。当時の国鉄総裁下山定則が失踪し轢死体で発見されたのは昭和24年(1949年)7月5日。自殺か他殺かで捜査は迷走する。松川事件、三鷹事件などと並ぶ占領下の謀略事件とされている。GHQ統治下では傘下の特殊機関が暗躍し、それに絡む旧日本軍の情報将校・特務機関員・特高警察や右翼などが占領軍の威光を背景に蠢いていた。国鉄をはじめ公務員の首切りは社会不安を引き起こし米ソ対立の激化に伴い共産党と左翼勢力への圧力が強まっていた。有名なキャノン機関とその配下の日本人機関の謀略も噂されている。米国CIAと占領軍CIC(対敵防諜部隊)の確執も興味深い。果たして真実は何処に。一連の事件の陰には占領軍は勿論、日本の政財官旧軍の見えざるネットワークが存在し、その闇は未だに隠然たるものがあるのではないか。

後藤篤志「亡命者 白鳥警部射殺事件の闇」筑摩書房 2013年

白鳥事件などといっても知らない人の方が多い。これまた戦後の混乱期に、札幌を舞台にした事件である。当時警察機構は米国流の国家地方警察と自治体警察に編成されていた。それに前述のCICなど米軍の機関も介入していた。昭和27年(1952年)1月札幌警察で共産党対策に当たっていた白鳥警部が何者かに射殺される。戦後の一時期暴力革命を呼号した共産党の中核自衛隊という組織の仕業ではないかと、捜査の手がのびる。党員や北大生が逮捕され、さらに追及の網が狭まる。追われる側は秘密ルートで中国にわたり、中国共産党によって保護される。まるでスパイ小説のような展開である。党幹部の村上国治が逮捕され有罪となるが、その証拠の拳銃弾は捏造ではないか。そんな疑惑で冤罪が叫ばれた。これまた戦後占領期の不可解な事件である。

天野恵一「大衆映画の戦後社会史」梨の木舎 2024年

労作である。娯楽の王様とされていた映画は、いつその座から転げ落ちたのだろうか。興隆期から没落に至る過程を、その時々の映画を丹念に分析することで描き出している。それに迫るテコとして一世を風靡した石原裕次郎や高倉健、戦争もの、青春もの、任侠ものなど多岐にわたる分野に分けて歴史として受け止めようとする。著者は東大全共闘出身、かなりひねりが効いた映画論であり、歴史論である。  


【長月雑感】

▼ 62.6%。新聞を開いて記事に愕然とした。1か月に本を1冊も読まない人の割合である。文化庁の国語世論調査である。10年前に比べると約16%も増え、半数を大きく超えている。書評で取り上げた書店の危機はむべなるかなである。いや、書店の危機以前に広義の活字文化が危ういということであろうか。大げさな言い方かもしれないが、日本語の危機につながることでもある。それは一つの考えや主張を脳で考え、言葉に出しそれによって思考を整理し深め、さらに文章化する。この一連の過程に言葉の意義がある。活字は他者の思考を己のものとして消化し理解し、表現していく上での契機としては大切な要素だと思う。スマホなど電子媒体に接する機会はほぼ毎日との回答もある。無意味とは言わない。自分もパソコンを介しての情報入手を欠かさない。それは多くの場合受け身なのである。意識的に他者の思考思想と向き合う姿勢を期待したい。本の世界に惑溺し、励まされ、無限の夢を結んできたはずだ。図書館関係者として、社会教育関係者として、活字中毒患者としてこのことと向き合っていかねばなるまい。

▼ 満月の月を仰いだ。夕方は雲が厚く今夜は無理かなと思った。7時過ぎ、雲が切れて月が姿を現しているではないか。百人一首に「今来むと いいしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな」(素性法師)とある。少々色っぽい歌なのだが、この時期の月にかけての歌である。床について窓から差し込む秋の月は、無為に過ごした日々を思いおこさせる。月は地球から年に3~4cm離れているそうだ。愚かな人類には愛想が尽きたのだろうか。ウサギさんは冷ややかな目で眺めているのかもしれない。

▼ 自民党総裁選の報道が喧しい。異例の9人出馬、いずれもトップの資質とは思えない。人には器というものがある。「將に將たる器」という言葉がある。人間としての器量を言うのであろうが、だれを見てもお粗末、国会議員としての資質さえ疑問符が付く。政府与党の要にいながら、今更それを言うかといいたくなる美辞麗句だ。小選挙区制が小者を作っているのか、日本人が縮み指向なのか。大所高所から経綸を語る人物が欲しい。戦中も小日本主義を主張し自由主義を貫き、戦後首相に就任するも病に倒れた石橋湛山を思う。真の保守政治家であった。立憲も旗幟鮮明ならず、右顧左眄している。自民党の陰に隠れてしまった。表舞台で踊るのは恥ずかしいと思わぬ昔の名前ばかり、もし女性の吉田候補が出なければ消化試合の様相だ。ノダが新代表とか。民主党政権崩壊の張本人が再登板。フーン⁉小林旭の高音が響きそうだ。「ハマの酒場に戻ったその日から あなたが探してくれるの待つわ」と。立憲は誰が探してくれると思っているのだろう。

▼ レバノンでのポケベルとトランシーバーの爆発。ヒズボラを狙ったイスラエルの仕業と判断するのが妥当であろう。もしそうなら、イスラエルという国は何とも陰湿で、目的のためには非道なことを平気でやる人道に外れた連中だと思わざるを得ない。レバノンにも爆撃を開始し、無辜の民が殺戮されている。ガザにおけるジェノサイドも同様。反ユダヤ思想の蔓延を招いている。ここまで増長させたアメリカをはじめ西欧諸国の偽善を糾弾したい。日本政府の姿勢を問う。

▼ 北陸に無情の豪雨。能登半島は甚大な被害に。1月の大震災の傷が癒えぬこの地に、天はなんとひどい試練を与えるのだろう。「心が折れた」とテレビで被災者が嘆いていた。生活再建に歩み始めたこの時、精神的な打撃は計り知れない。今こそ国を挙げての支援と地域再興の希望の光を示すべき。でも政権与党は総裁選挙に夢中、肝心の総理大臣様はニューヨークへ想い出旅行。上機嫌で親分のバイデンとグラスを傾けている。政治の真価が問われている。すでに市町村が対処できる事態ではない。災害に一元的に対応する国家規模の司令塔が必要ではないのか。泥にまみれた現地に飛び込む、真実一路、誠の政治家はいないのか。情けない。  


☆徘徊老人日誌☆番外編 

🚗北帰行ふたたび→ヨレヨレ1600km🚢

8月某日 深夜にエンジン音が響く。荷物を積み込み、自宅の電気水道を確認し玄関の錠を確認する。関越高速鶴ヶ島インターへ。いざ新潟港に向け疾走だ。闇を切り裂くヘッドライトの青白い光を頼りに、慎重にゆっくりと言い聞かせて草臥れた元青年が走り続ける。野太い排気音を響かせてスポーツタイプの乗用車がわきを駆け抜けていく。大型トラックの一群が爆走している。夜の高速は彼らの天下、迫力満点まさにコンボイである。あおられぬよう速度を合わせつつ、アクセルの踏み込みを抑えてひたすら前方を注視。1,2か所のSAで休憩をとる。やがて明け方、いつもの黒埼PAに車を入れ仮眠をとる。ここまでくると新潟市内はもうすぐ、一息入れてコーヒーブレイク。気力回復したところで走り出す。丁度出勤時間帯、地元ナンバーが追い越し車線に列をなし猛然と抜いていく。新潟亀田インターで高速とはお別れし、すぐに左折して近くのイオンへ。9時には食品売り場が開いているこの店では、船内用の食料を買い込むのが恒例。

フェリー埠頭にはすでに車が多数待っていた。後列につけて乗船手続きをする。船の都合で1時間遅れとか。待つことしばし、白い巨船が悠然と姿を現し着岸。荷下ろしがすみ、船内作業が整うと乗船。乗用車は誘導に従い船内へ、先に積み込まれたトレーラー、コンテナ、大型車が整然と収められている。車の同乗者は徒歩にて乗船。勝手知ったる船内、一番前の展望室で出航を見守る。船首で出航作業をする甲板員の動きは小気味よい。岸壁と船をつなぐ係留索を手際よく収納し、巻き上げる錨の音が響き振動が伝わる。今日の日本海はウネリはなく波は穏やか、快適な船旅になりそう。

翌早朝小樽港に着岸。高速道路は使わず、国道を札幌方面へ。新千歳空港にて羽田から飛来の娘親子と落ち合い、野幌の北海道博物館に向かう。小6の孫娘は博物館に興味があるので博物館見学し、さらに隣接する「北海道開拓の村」へ。昔の北海道を知ってほしいと思う。幕末明治以来の入植当時の施設、遺構、住居、産業などが再建保存されている。開拓という言葉は微妙だ。元もとは先住民族アイヌの地、それも知ってもらいたい。解説ボランティアさんの案内で約2時間、手際よく園内を回った。時間の都合上切り上げたが、全体の半分程度、また連れて来たいものだ。その夜は札幌泊まり。

本日の予定は美瑛町の「青い池」に寄ってから釧路に向かう。約500kmのドライブ。「青い池」は娘のたっての希望、数年前に来たときは折あしく台風の影響で土砂流入で濁り茶色い池だった、それ故再挑戦。今回は見事に青さも蒼し、その名の通りの景色だった。例によって外国人観光客多し。一路釧路へ、富良野に出て滝川からはR38をひた走る。新日本八景の狩勝峠にて十勝平野を一望、新得まで下り十勝清水ICより道東自動車道。待っていてくれる友人の電話に励まされ、6時過ぎに釧路駅前のホテルに投宿。ほどなく友人が迎えに来てくれる。友人夫妻とこちらの4人で焼き肉の火を囲む。もちろん飲むのはサッポロクラシック。毎回帰釧のたびに暖かく遇してくれる友は有り難い。

翌朝コインランドリーで洗濯。父母の墓参り。続いて娘親子ご希望の釧路市動物園へ。お気に入りの虎に会いたいとのこと。夜の部は友人夫妻の設定により、釧路川沿いの岸壁炉端へ。炭火で焼かれる鮭のチャンチャン焼き、ホタテ、ツブはことのほか美味。テント張りの炉端に吹き込む川風が心地よい。岸壁には巻き網船団の大型漁船が煌々と照明をつけて停泊中。酔い覚ましに岸壁を歩き(酔眼朦朧 落ちないように気を付けて)船籍を見ると長崎県、島根県、愛媛県などかなり遠方からきている。船団はそれぞれ4隻程度がセットになっている。イワシが目的。今年のサンマはどうだろうか。魚影は厚いのかな。その昔無尽蔵ともいえるほど取れたサンマで河岸はにぎわい、全国の漁船が港を埋めていた。子どものころ、気前の良い漁師がバラまいてくれるサンマを拾って家に持ち帰った。そんな記憶がよみがえる。 この岸壁の先には中央埠頭。時々巨大なクルーズ船が着岸する。今日は来ていないようだ。

もう帰る日、苫小牧までいかねば。道東自動車道を帯広方面へ、鹿が出ないか要注意。帯広の先で一般道へ。ひさしぶりの日勝峠越え、ここを走るのは10年以上前か。峠を越えたあたりで雨に見舞われるが走行に問題なし。峠を下った先の平取町には義経神社が鎮座している。義経渡来伝説の地である。北海道には義経は奥州衣川で死なず、北海道に渡ったという伝説が各地に残っている。義経ジンギスカン説も面白い。ある意図で流布されたものなのだが、興味がある方はどうぞ。私は1度参拝している。左手に太平洋を眺めながら走り、苫小牧には予定通り3時頃到着。スーパーに寄って食料を買い込みフェリー埠頭へ。列をなす車のナンバープレートは地名総覧の如し。いつもの新潟行き新日本海フェリーではなく、今回は仙台行き太平洋フェリーに乗る。大都市札幌に近く工業地帯を後背に持つ苫小牧港は盛況。フェリー埠頭には3社の巨船が並んでいる、壮観だ。乗船し甲板から港内の眺望を楽しむ。隣の大洗行き商船三井フェリーはトレーラの積み込みはたけなわ、あの長いトレーラーを操るドライバーの腕の確かさ。時にはバックで船内に進入していく。トレーラーのバックは至難の技、しかも狭い車両甲板、思わず見とれてしまう。かくて船旅が始まる。風呂に入る、緩やかな波と湯船のWの揺れに身を任せ、大海原を眺めながらの風呂は極楽。運転の疲れが抜けていく。風呂上がりのビールは最高、そして就寝。娘親子は夜中に甲板から見た星空の美しさに感動したとか。

仙台には朝10時着。仙台城跡の政宗像を仰ぐ、観光客多い。東北道乗り入れ。空模様悪く、途中豪雨に見舞われる。水しぶきがフロントウインドウを叩き雨音はラジオの声を消してしまう。ワイパーが効かぬほどの降りっぷりに、速度を落とし慎重に周囲に注意を払いながら走行。安達太良SAに車を止め雨を避けようとする。同じ思いの車と人で大混雑。悪いことにトイレは工事中で仮設になっていて、そこまで屋根はなし。困ったものだ。混雑気味の東北道~圏央道と走り、やっとのことでヨタヨタと午後7時ころ無事帰着。慌ただしい5泊6日の急ぎ旅は幕を下ろした。徘徊老人の強行軍、ナビを務めた娘のサポートに負うところ多し。いつものことながら、もう少しのんびりとした旅はできないものだろうか。

9月某日 友人より久しぶりの電話。かねて病を養っていた母上が逝去したとのこと。99歳の大往生、あと1か月で100歳だったのに。戦前戦後を生き抜き、昭和を歩んだ人が逝った。彼とは学生寮以来の肝胆相照らす親しき友、年に数回飲む不良老人会の常連でもある。合掌


彼岸過ぎ、空気が入れ替わったような気がします。体調を整えて季節の変わり目を乗り越えましょう。


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