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【読書】教養との距離感について考える『ファスト教養/レジー』
三宅香帆さんの著「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」で引用されていた本書を手に取ってみた。
教養という元来その定義のあいまいな概念が、社会の流れの中で「周りを出し抜いてうまくお金儲けをする」ためのツールとして転用される。・・・
ファストという名前のとおり、ファスト教養に求められているのは即効性である。今この瞬間にうまく立ち回りたい。そのために必要なネタが欲しい。なぜなら金儲け、すなわちビジネスにはスピードが大事だから。時間もコストと捉えると、すぐ使えれば使えるほどコスパが良いともいえる。
「教養」という概念が、今の日本社会において、どれだけビジネスに浸食されているかということを、堀江貴文、中田敦彦、メンタリストDaigo、ひろゆき、出口治明、池上彰(敬称略)などなど、「教養」の発信者として誰もがきっと一度は目にしたことがあるであろう名だたる人物を取り上げ、考察している観点に、もはやうなづくことしかできなかった一冊だった。
いわゆる「自己啓発本」をファスト教養的な立ち位置に位置づけ、お金を稼ぐために行動することだけが正義として認識されている社会を俯瞰的に考察している点が、めちゃくちゃ面白かった。
どう考えても著者のように、そんな世の中に俯瞰的になれなかった人生だったように思う。
割と学生時代の頃から、「お金を稼ぐ」ことの絶対正義感は揺るがなく社会を陣取っていて、がっつりとNPOの活動に関わっていながら、その持続性のなさに疑念を抱き、だからこそ「お金を稼ぐ」ことを学ばなければと、お金を稼ぐことを正義とした生き方に全く違和感を抱くことなく新卒でベンチャー企業に就職した。
いつかは自分自身でビジネスをしたいと、割と上記に挙げたような人物の手軽な動画や本を、何の違和感もなく受容していた記憶がある。
違和感がないというより、ちゃんと勉強しなければ「やばい」
何が「やばい」かわからないけれど、なんか「やばい」
そんな恐怖の感情が見事に本書内でも言語化されていて、首がもげるほど頷いてしまった。
「教養が必要」という漠然としたメッセージと「教養を学ばないとやばい」というそこはかとない不安が増幅されていく。そこから生まれるのは「学びの楽しみ」や「自己成長への期待」といったポジティブな感情ではなく、「転落への恐怖」とでも言うべきネガティブなものである。・・・・
要するに、「グローバル時代に恥ずかしくない教養を身に付けよう」ではなくて、「教養がないあなたは、このままでは中間層から脱落します」というメッセージが、いろいろなメディアを通じて発信されているのです。変化の大きい時代で「脱落」しないために教養を学ばなければならない。そんなスタンスに立った場合、「人生を豊かにする教養」を悠長に学んでいる暇はない。
こうやって、客観的に考察されている文章を読んではじめて、そのファスト教養なるものの「脱落」「排除」の観点のあやうさに気がつくことができたように思う。
そう簡単に客観的にはなれなかった社会人生活だった。
そのファスト教養なるものに漠然とした違和感こそあったものの、言語化はできなくて、そうやって違和感を抱いている自分は、この世の中では生きていくことができないのだから、そんな違和感に蓋をして、消して、勉強しなければ、、、、。
それが最近無職になってからやっと、その違和感に別に蓋にする必要はない的なことに気がついて、そしてそれがここで、本当にはじめてきちんと言語化されたような気がしている。
なんだかほっとした。
あぁ、1人じゃなかったんだって。
なんだか闇雲に「やばい感」を感じて、恐怖の感情とともに必死にファスト教養を受容しながらも、そこに違和感を感じている人って結構いるんだって。
この本がベストセラーになるくらい、こんな世の中に疲れている人って、割とたくさんいるんだなって。
そう気づくことができるだけでも本書を読むことができてよかったと思うのだけれど、著者はそれだけにとどまらず、そんなファスト教養を「解毒する」と表現する形で、私たちに、解決の選択肢なるものを最後に提案してくれている。
そこも読んだ上で、私と「教養」の今後の距離感について考えたことを最後に綴っておこうと思う。
結論から書くと、自分にとっての「食事」のような立ち位置で、「教養」と接していこうと私は思った。
私にとって「食事」は大事だ。
産まれてこの方私は食べることが大好きで、いろんな場所で、いろんなおいしい食事を楽しんで、味わってきた。自分でつくったりもしたし、誰かのこだわりにもたくさん触れた。
けれど、毎日3食、そんなおいしい食事に人生のすべてをかけることができるほどに、私はお金持ちでもなければ、潤沢な時間もない。
そんなお金や時間をすべて度外視して心酔するほど、食事マニアや料理マニアになる勇気も志もない。
残念ながら、それは事実で、どう考えても揺るぎない。
だとしたら、コスパを重視した食事、お金をかけずに自炊したり、たまにファーストフードに頼ったり、そういう自分もきちんと受け入れてあげつつ、自分の身体と心の余裕の許す限りで、たまにちょっとお金をかけた食材を買って自分で調理してみたり、親しい人と贅沢に外食してみたり、そんな味わう時間の価値を忘れずに生きていきたい。
そんなことを割と本気で思っていて、これってそのまま「教養」との距離感にも応用できるのでは、とそんなことを思った。
本書を読んだからといって、自分の中からすべての「ファスト教養」なるものを排除する必要はないし、そもそもそんなことできない。
なぜって、この資本主義社会を生きていく上で、「お金を稼ぐ」観点を全くもって排除することは、よほどのことがないかぎりできないからだ。最低限、生きていくためには「お金」が必要なのである。
そういう前提に立ったとき、ネガティブに、悲観的になりすぎる必要はなくて、ある意味、そんな世の中を生きているのだから、しかたない。
そう割り切って、ある程度コスパを意識しながら、ファスト教養を受容する。
けれど、その範囲ですべてが完結してしまわないように、最初は本当にたまにしかない「贅沢」みたいな感覚でもいいから、「お金を稼ぐ」という観点とは別にある「教養」に触れる時間を、5分でも10分でも作ってみる。
そうやって、あえて役に立たない時間を作るように仕向けてみて、それらを消費するのではなくて、味わってみる。
重要なのは、「消費」じゃなくて「味わう」という感覚そのものなのだと思う。そうやって「教養」を「味わう」感覚を手に入れることができたのなら、そこに付加価値を置いて、バランスを調整しながら、毎日を過ごしてみる。
そうやって、自分にとっての「食事」と同じようなバランスのとり方を「教養」ともできたなら、割と幸せな人生を送れるのではないかとそんなことを思って、これから生きていこうと意気込んでいるかんじである。
そんな素敵な観点をくれた一冊だった。