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輝く子ども達②


前記事。娘の発表会にて感じたこと。



発表会が終わり、
車にて、ゆっくり娘と語る。


「あーちゃん、がんばったね!本当にすてきだったよ♥
 ダンス、凄かったねえ!あーちゃん、いっぱい練習したんだね!かわいかったよお!
クレヨンの黒くんも、いいお話だったねえ。黒くん、最初はのけものにされていたけど、最後には役に立てて嬉しそうで。
 ママ、涙でちゃったよ。感動した!」

「ありがとう、ママ! 
 かんどうした、っていってくれて、あーちゃんうれしいよ!」


あーちゃん、『感動』って言葉、知ってたんだね。
ママもこの気持ちをたくさん表現したい。もっともっと表現したい。
でも、『感動』で、わかってくれてありがとう、あーちゃん。

君は5歳なのに、賢いね。
感動がわかるんだもん。
いつも、君は、葉っぱが風になびくのも、
バラからよい香りがするのも、
わあ〜♡と言って、感動しているよね。

その気持ちを、いつも感じているから、
私の、『感動』と表現したことばをわかってくれるんだね。
ありがとう。


あーちゃんは、
「よくできてたでしょ〜!」と言っていたが、
自分のダンスについて、それほど多くを語らなかった。


あーちゃんの口からでたのは、
「Mちゃんがね、あーちゃんのダンスをみてまねっこしてくれたの。じょうずだったよね!」

「せんせいがね、だいをうごかしてくれたの。あんなにおもいのにね、ありがたいねえ」


あーちゃんは、自分のことに焦点を当てていなかった。
まわりの友達や、先生が、
どれほどがんばっていたか、心を配ってくれていたか、を表現しはじめたのだ。


この子は、どうしてそれができるのだろう。
友達に真似された!っていうふうに、怒るそぶりなんて微塵もない。真似してくれてありがとう、だって。
先生に「ありがたい」という言葉も、自然に口からでてきていた。




思い返すと、私は
『ありがとう』を心から言えない子どもだった。
『ありがたい』なんて言った覚えもないし、他者がしてくれたことに対し、心底"感謝"の念を感じたことがあったか……と問われると、
無いに等しいのではないかと感じる。
周りの人が、何かやってくれるのを、『当たり前』と考えていたのだと思う。


幼少期、あれは6歳頃であったか。
こんな場面があった。


当時私は、習字教室に通っていた。
お正月、年を越してはじめての教室の日。
私の母は、私にこう言った。

『ちゃんと、"あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします"と言えよ。
 そう言わないと、なんだこいつ、挨拶も出来ねえのかと思われるぞ。
 ちゃんと挨拶とかお礼が言えないと、おかしいと思われるからな』

私は身構えた。
そうか、こうした挨拶ができないと、おかしい、できない奴だと思われるのか、と。

同時に、こうも感じていた。
『イヤだな。挨拶って強要されるものなのか。やらなけばならないことなのか。』

この場面は、鮮明に覚えている。


私は元々、言葉が出てきにくい子どもだった。
だから、こうして、どんな時にどう言えばよいか、を家族に教えられ、その通りにやろうとしてきた。

だからなのか、『ありがとう』という言葉は、
私の言葉ではなかった。
相手に、感謝の念を抱きながら言えればよかったのに、そうではなかった。
私にとって言葉は、"変に思われないための" "処世術のようなツール" と化していた。
この「ありがとう」を使う時は、いつも自分にベクトルが向くという、なんともチグハグな感覚をもっていた。

私の中では、想いが具現化したものではなく、『言葉』として、ただ、言葉としてのみの、文字面だけのものであったのだ。


このような私が、
「ありがとう」も、「感謝」も、
体感覚として得られていなかった私が。


大人になった今、その意味がわかるようになっている。
そして、我が子と、『ありがたいね』と会話ができるようになったのだ。


『ありがとう』と、心から言えることが、
こんなにも素晴らしいとは思わなかった。
『ありがとう』の言葉が、自分の想いと一致していることが、こんなに心地よいものだとは思わなかった。
その言葉を、自然に投げてくれる我が子達にはとても感謝しているし、ここに至るまでに導いてくれた仲間達には、本当に、なんと言っていいかわからないくらいに、『ありがとう』しか、ない。


先程、
私の母親との会話をのせたが、私の母親のせいで、私が『ありがとう』が分からなかったわけではないことを付け加えたい。


私は、『感謝』や、『愛』を
この世に広めるために、分からなかったのだ、と解釈している。

だから、幼少期に、『母親の言葉に反応』し、
『ありがとうの意味がわからない』状態を自ら創り出し、
大人になって、自分が感じていることを表現しやすい環境になってから、『感謝』の意味がわかるようになっていった。

そして、それを、書き記すことをしてきた。
その時にしか感じ得ない、鮮度の高い、感性の賜物を。

子どもの時に、全てが幸せいっぱいの世界で
育まれていたら、それも幸せだろう。

ただ、私は、大人になってから、その世界をイチから知り、
『自己認知の怖さ』を感じたり、『リカバリーできることの証明』を、なにより『ありがとう』を、体感したりすることができた。

だから私は、感謝を感じられなかった自分の人生を、こう表現したい。

私は今まで、感謝を感じられなくてよかった。まるで生き直したかのように、産まれたての赤ちゃんのように、感謝を感じる過程を、存分に味わうことができたのだから。】


これを見て、ポジティブ変換しすぎではないかと思われるだろうか。

実際、私は"親から評価されていた"し、
"評価されている" と感じていた。

しかし、それは、私が拾った自己認知。

私は、「評価される存在」として、自分を見ていたのだ。


ここで、私の仮説を述べる。
私が幼少期にネガティブを拾ってきたのは、意味がある。
私の感じたネガティブな想いこそ、まさに自分の『向き合うべき観点』だったのだ、と。

例えば、今回のことで言えば、
「私は評価されている」
と感じたのは、心理学的にも『自分にある』から、心が反応した【投影】の結果に他ならない。

ということは、私は幼少期から、『人や自分を評価する』ことをしていたのだ。
良い・悪いの二元論的な思考の傾向。
その中で、自分を『ダメ』と決めつける処罰傾向。

それをしていたがゆえ、自分に自信がなく、自分の枠を自分で小さく設定し、
表現も拒み、親の期待に応えられなかった。
そしてまた親は私のことを、「できないやつ」と評価し、
また私は、私のことを「できない奴」と自己卑下する。

そんな負のループに、私はいたのだ。

幼少期に現れていた特徴であるからして、
きっと、過去世からのカルマ・自分が産まれる前に設定してきた伏線であろう、
と今なら考えられる。


気が強く、"気合と根性" が合言葉の、
強く厳しい母親のもとに、産まれたのも、意味がある。

母親は、私のために、『役』を演じてくれたのだ。

「私を評価する者」としての。

そこに苦しんだ、内向的な私は、
結果して、【自分を内観する天才】
として
才を現した。

これは、一長一短ではできまい。

そして、嫌われることが嫌だと衝突を避けたり、中途半端な対応の親の元では
成し得なかった芽吹き方
である。


私は、母親に、この才を伸ばし育んでもらったと言える。

ありがとう

あなたのおかげで、いま、
全てが『感謝』に感じるフェーズに入れている。

だからこそ、
私は、子ども達に、はじめから、
自然体での『感謝』が湧きいでて、相手に伝えられる世界線を、
選んで手渡すことができている。 



私は、最近、母親に対して、
『ありがとう』を言えるようになっている。


【明日死ぬなら、"ありがとう" "大好きだよ"を、伝えたい】

と思っている。


私の母親は、

『ずっとずっと、だいすきだよ』
という、国語の教科書に出てくるお話が大好きだ。

エルフという犬がなくなる時、
家族のみんなは悲しんだけど、
これまで一緒に過ごしてきた少年だけは
違った。

『ぼくは、悲しくなかった。いつもエルフにだいすきだよ って伝えてきたから。』


そう。

大好き、愛してる。
その思いを表現して、伝えて。


今、命がある限り、
伝えられる人が、そばにいる限り。

減らない、減らない。

むしろ、増えていくんだ。


愛の連鎖を
みんなで創ろう。


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taka✢3児ママ・いろんな愛の形
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