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「お金がない」の刷り込みを、書き換えた話。

私は、自称『ネガティブを拾って生きてきた』人間だ。

──「無い」──

この強いエネルギーを放つ言葉が、幼少期の私を、薄暗い靄の中に閉じ込めていた。

幼少期から、私の家族(大人)たちは、
この言葉を言っては暴言を吐き捨て合い、喧嘩をしていた。


「お金」が、「ない」。

「時間」が、「ない」。

お前には、「できない」。

その言葉を聞くたび、
その罵り合いを垣間見るたび、
枕の流れ弾に当たったあの時も、
思った。

「うちには、ない」んだ。
「私がいるから」こうなるんだ。
「私は何をすることもできない」。 


「できない」、「できない」。

その"呪い"のように、私を呪縛した言葉は、
いつしか、私自身となった。


私には、「ない」から、「あるように」見せなければ。
無意識に、そう思っていたんだと思う。


ハリボテでも、突貫工事でもいい、兎に角。

私には「ない」んだから。
「ない」人間には価値がない。
そんな人間ではいけ「ない」。
何かを持たなければ。
評価されるように振る舞わなければ。
学力が高い自分でなければ。
他者の機嫌を悪くしない自分でなければ。

そうして、いつもキーンと
張り詰めた、冷たい空気が、私を覆った。

「発表」

例えば、これを求められる時が、1番恐怖であった。
私を、「曝け出したように」見せなければならない場面だ。
それなりの応えの枠はわかっていた。
求められているであろうものを、予想することも、何とかできた。
それを現すことも……何とか、出来ていた。

──ただ、
ただ、それはもう。

「聴いた人、見た人が、どう思うか。」

その視点が半分以上を占めており、
本当に"私が書きたいもの"が、
100%表せたことはなかった。

寧ろ、
"本当に私が表現したいもの"なんて、「ない」と思っていた。
本気で、誰かに、何かを伝えたいと思ったこともなかった。
──"求められたこと"も、なかった。
──私の表現なんて、"求められてない"。
そう感じていた。


いつも、いつも、
人の目を気にしていた。
『他者から、どんな目で見られるか』
『他者には、どんな私が映るのか』
どんな時でも、なぜかその意識が働く。

"相手が望む自分"でなければならない。

私は、そんな「自分」を、長らく演じていた。





ある時、小2となる長男が、「お金」に関心を持ち始めた。

「ねえ、お母さんのお財布の中身、見ていい?」
「全部で何円か、数えていい?」

こう質問し、私のお財布はもちろん、家の中の集金用に用意してあるコインケースの中身まで、電卓まで使って計算したがるのだ。

私は、「うん、いいよ……」と息子に言いながらも、正直、気が進まなかった。
息子のお財布の中身が、ポケモンカードへの浪費で少なくなったから、お金が欲しいのかな?
まさか盗んだりしないよね──?

また起こってもない事象を想像し、まだ幼く純粋な息子に対し、疑惑の念を抱いてしまう。そんな自分自身に、モヤモヤが募った。

息子に、なんで見たいの?と聞いても、「だって知りたいんだもん。」とだけ。

またある日、息子は、お手伝いするよ、と言いながら、紙に30個のマスを書いた。「1000円が貰えるお手伝い」と題して。

こちらも戸惑った。子どもが自分で金額を決めて、お手伝いをやったらお金が貰える制度をつくって、って──。
これは、いいのだろうか?

私には、判断基準がなかった。
お金はあげたい気持ちもあるけれど、必要なもの、例えば学用品などは今、既にあるわけだし。かと言って、「僕にはお金がない、制限されている」とも思って欲しくはないし……。
そして、私自身も、「お金がない」から、駄目、とも言いたくなかった。

この何とも方針が定まらない感覚。
これを、子育ての先生に話したところ、
個別でセッションをしてくださることになった。

『このひっかかり』にも、何かがありそうですね、と
先生が、"自分自身との向き合い"を、提案してくれたのだ。


これまでも、何回か、
寂しさや怒りを感じていた、私のインナーチャイルドに出会う旅をエスコートしていただいた。

今回も、また、
"大切な何か"に出会えるかもしれない──。

私は、その日を心待ちにしていた。





ある日、息子と書店に行くと、併設してあったゲームコーナーで、UFOキャッチャーをやりたい、と言い出した。
見ると、子ども達に人気のポケモンカードのセットが景品だ。
私は直感的に(やめたほうがいい…どうせ取れないよ)と思ったが、息子に言っても納得しないだろうと考え、「自分のお金でやるなら」と頷いた。

それから20分あまりの時間、行き交う人の視線を浴びながら、格闘する息子。
「あー、もっとこっちだった」
「いけ!いけ!あーもう、なんでだよ」
「ちょっと100円玉に変えてくる!」

──胸がざわつくのを感じながらも、私は意識して何も声をかけなかった。そのうち見ていられなくなり、下の子のオムツを替えにいったりして、時間を費やした。

そして──、案の定、息子は2000円あまりを溶かした。

ゲームコーナーを出る時、息子は少しうつむき加減で歩いていた。
「あーあ。お母さん、ごめんなさい。」

「いいんだよ、自分のお金でやったんでしょ。」

「うん……。でも、何で取れなかったんだろう。」

「そういう風にできてるんだよ。わざと、取れないように、アームが緩くなってるの。だからね、買ったほうが、確実に欲しいものが手に入ることもあるよ。」

「そっかあ。そういう風になってるんだね。」


息子と私は、お金では買えない、「体感」というものを手にしたような気がした。
私は、ここでポケモンカードを手に入れなかった現状と、少しだけホッとした気持ちの私にギャップを感じながらも、(これでよかった気がする)と自分に言い聞かせ、店をあとにした。





──そして迎えた、セッション当日。

私は、先生に、息子の現状から伝えていった。
息子が最近、「お金」に興味をもっていること。私の財布のお金を数えたがること。
それを見た私は、息子自身のお金が、浪費で無くなってきちゃったから、数え始めたのかな?と感じていたこと。
でも息子自身は、理由を「どのくらいあるか知りたいから」と言って、楽しそうに電卓を叩いて計算していること。


次に、先生に質問されながら、私は答えていく。

「どうして、息子さんは、その行動をしていると思いますか?」

「うーん。ポケモンカードで散財していたから、お金の失う恐怖を感じていたり、お金が"無い"って思ってるから、安心したいのかな……?」

「今回、どんなことがクリアになるといいですか?」

「私の潜在的な"お金への意識"をクリアにし、子どもたちに偏らない価値感を渡せたらいいなと思います。私が、お金に関して軸がなく、ブレているから、息子への小遣いも定まらないというのが起こっているので……。そこをクリアにしていけたらいいなと思っています。」


ここから、夫をはじめとする"家族"のお金の価値観を、洗い出していった。

夫は、兄弟が多く、幼少期経済的に厳しい環境で育った。自立してほしいという親の思いにも応え、高校では学費を稼ぐ為に、毎日アルバイトをしていた。浪費癖(ギャンブル、酒、たばこ等)はなく、自分の趣味のスポーツ用品などの必要なものには惜しみなく使うなど、メリハリがついたお金の使い方をしている。近年は、「お金は、投資運用しないとただの紙」という捉えで、自ら家計を管理しながら余剰分を運用している。
なんとも有り難い夫だ。

私と夫、どちらも幼少期は「月額お小遣い制」ではなかった。自由にお金を使えなかったからこそ、お金を大切にしてほしいという、子どもへの思いは同じであった。
そんな私達は、「お金ないから買えないよ」とはいいたくなかったし、「うちにはお金が無い」って思わせたくなかった。
子どもが、「おもちゃが欲しい」とねだったら、おうちにこれ同じやつあるよね、と、お金を理由にしない言い方で伝えてきた。

特に私は、「"無い"から買えない」、という言葉を使いたくなかったのだ。


ここまでの私の話を聴いて、先生は言った。
「息子くんは、なんの刷り込みも入ってない、まっさらな状態なんですね」


私は、そうだったのか、とハッとした。初めてその事に気がついた。そうか、幸運なことに、私は、まだ、息子に刷り込んでいないのだ。そして、私は、決して刷り込みたくなかったのだ。
刷り込みたくはないが、ポジティブなイメージも沸かず、どうすればよいかが分からなかったからこそ、言えなかったのだ。


それほどまでに、「お金のことを口に出来なかった」私。

「無い」という言葉に、過剰に心が反応する私。

「無い」という言葉で思い出す、家族達の印象……。
お母さんの「うちにはお金が無い!」という強い言い方。
おばあちゃんの「無いからこんな苦労したんだ!」という愚痴。

「無い」という言葉は、私にとって、
ネガティブで、強烈な強いイメージで、
耳に入るたび、心をえぐり取った。



私が幼い頃、おばあちゃんは私に、よくこんな話を聞かせた。

「自分たちは「お金がなかった」。じいさん(おばあちゃんの夫)のじいさんがな、のんべじっちぃでよお、穀潰しだありゃあ。この家立てたり、息子(戦死)の立派な墓立てたりはしたけっども、酒で全部使い込んじまって。だから、おらいのじいさんは、食うものも食われねえほど貧乏しちまったんだ。田んぼのタニシやカエルまで食ってたんだ。食うものがどうしても無いときは、近所の安兵衛さんとこで恵んでもらってたんだと。
オレも嫁に来て、妊娠したときに栄養取らなきゃいけねぇべ?でも食うものもねえから、うちで飼ってた鶏の卵をよ、庭からぬすんで姑に隠れて食べようとしてな。これ、売り物だったんだけども、そん時はオレも栄養つけなきゃいけねえべ? それを服のポケットに入れてよ。それを、姑が来た!って思って慌ててしゃがんだら、間違って割っちまってなあ」

おばあちゃんやおじいちゃんは、それぞれ4つ、7つ、の時に戦争が終わった時代の、厳しい頃を生き抜いてきた。おばあちゃんから聞く話は、「こんなに苦労した、大変だった、ものが無かった」、そんな苦労話。

おじいちゃんのおじいちゃんの、その前までは、「うちは使用人とかかかえるような、でっかい百姓をやってたんだ」とも聞いたことがある。しかし、そののんべぇが金遣いが荒く、使い込んでしまったり、その後も、親族内で土地を勝手に売られてしまったり、など、色々あったようだ。

先祖達の顔写真が、額縁に入って、座敷の壁の1番上に並べられ飾られている。
大きなお百姓さんだった時の先祖は、いい着物を着ていて、いかにもという風貌であった。
今日もその写真たちを眺めるが……やはり、なんとなく居心地が悪くなる。写真達は白黒で、絵画風なものもあり、表情は少し怒りに近い感じがする。口もへの字にキュッと結ばれていて、暗い。小さい頃から、いつも彼らに睨まれ、見張られているような気がしていた。


「こんなでっかい家も、庭も、ねぇほうがいいわあ。草取りだって、だあれもやんねえから、オレがせっせせっせと取ってなあ。草ボーボーにしといたら、道路から見えてカッコ悪ぃからよお。でも大変なんだよ、こんだけにしとくの」

こうして、おばあちゃん家にいくと、家や庭が無い方がいいという話、草取りや植木の手入れが大変だという話をいつも聞いていた。


そんなおばあちゃん達は、子ども達(私のお母さん)を育てるのも経済的に大変だったという。
お母さんから聞く話の中では、「歯」は最後によくよく悪くなってからしか行かせて貰えなかった、という話や、東京の大学に行きたかったけど、お金がなくて教師になる夢を諦め、高卒で就職した、というものがあった。

そのため、私のお母さんは、娘たちには、歯や目だけは、と、小学校から歯列矯正を受けさせてくれたり、暗い所で本を読むとなればゲンコツが飛んできたりしたものだ。
また、3人の子ども達が、どうやったら全員大学に行けるか、お父さんと話し合いながら育ててきた、という話も聞いたことがある。
本当に、私達の健康や教育・習い事には、優先的にお金を使ってくれていたんだな、というのは "頭" では分かる。

そんなお母さんは、私達が幼少期の頃は、「お金がない」「時間がない」と大きな声で叫び、お父さんと喧嘩をしていた。その姿を目の当たりにする度、ああ、私がいるからだ、と肩身が狭く哀しい気持ちになったものだ。
そのお母さんは、鞄が好きで、よく買ってきては、押入れに眠ったままとなっていた。買って安心、使わず溜め込む、むしゃくしゃしたときは買って発散、そんなお金の使い方をしていた。


一見、周りからは恵まれているね、と評価されることが多かった。そんな家庭だ。学生の頃、彼氏(現夫)にも「お嬢さまじゃん」なんて言われたことがある。だが、私自身は、そう感じられなかった。

両親に対しても、「やってもらった」という感謝の想いが実感として湧いていなかった。
「やってもらって当たり前とおもうなよ」「ちゃんとお礼を言え」そんな強要をされる言葉をぶつけられ続けたものだから、心の底からの、笑顔いっぱいの「ありがとう」など、たぶん、言ったことがない。記憶にはない。ただ、言わなくちゃいけないことだから、「ありがとう」を言う。そんな子どもだった。

習い事などは「やらされている」と感じていた。週のうち6日は埋まっていて、いつも"ゆっくり過ごす"という感覚がなかった。
やらされている。辞めたいと言っても辞めさせてもらえない。だから、私は忙しいんだ、時間がないのだ、と。

お前はできるはずない、と夢を否定されたのも、

お前は喋れるのかよ、と、侮辱されたのも、

やりたかったことを、ハナから話も聴いてもらえなかったことも。

こんなに、傷ついている、苦しい、それは家庭環境のせいだ、家族の心ない言葉のせいだ、と思っていた。



「無い」 「強要されている」 「搾取されている」

この感覚が、私の中にこびり付いている。


──1年前ぐらいだろうか、第3子の妊娠が分かり、おばあちゃんに報告した際。

おばあちゃんに、こう言われた。
「3人もどうするんだよ」、と。


今では、"頭" でわかっている。
おばあちゃんは、あの頃の、経済的にもつらい育児を体験したからだ、と。


でも、言われた時は、家族なのになんで応援してくれないんだろう、それだけが、胸の中を黒い煙で覆い尽くした。


私が教員から転職したときも、
「拾ってもらえてよかったなぁ、こんな子ども抱えてるのを。やめさせられねぇようにしろよ」と、しがみつけ的に言われた。


私はこれから、自分の人生をステージアップさせたいと思ってる。「作家になる」という夢ももつことができた。この、だれにも強要されない、自分の「夢」を描く事ができた、ということだけでも、心が弾むことなのだ。
──けれど、ふとした時に、これまでに言われた言葉が、姿を見せない細かな霧のシャワーのように、私に降り注ぐ。
私の、やっともてた大きな夢をブロックし、安定した給料が出るところがいいんだろうなという思考に自動で走ってしまう。

お母さんもお父さんも、大手企業などの潰れなさそうな所で働いていた。私が夫と結婚する時も、配偶者としてのチェックポイントは、「安定した、給料」だった。夫も大手企業で、なんなくクリアはしてくれたが、もしそうでなかったら、きっと3年は会って貰えなかっただろう。──たぶん。


私は、
私の人生は、「無い」が色んなところに響いてる。


そこを、ゆき先生は、
「『無い』のメリットを携えてきてる」と表現した。

たしかに、私はこれまで、「失敗しない人生」を着実に歩んできた。

推薦で高校へ入学し、
大学にもストレートで入り、
教師となり。
転職後も安定した職につき。

でも、今、親の一言、家系の流れを手放して、

人生を好転させたい。

自分の力で、動かしてみたい。

その思いが、ふつふつと沸き上がってきているのだ。
その思いを、自分自身を、大切にしたいのだ。



──そうだった。
 そんなタイミングで、子供がお金に興味を持ち始めたんだ。


私は、息子の姿を見て、

「無い」と思って数えてるのかな?

なんで見てるんだろう?

と、モヤモヤが起きた。


どのように伝えていこうか。
それが、分からなかった。
見えなかった。
正解がわからない。


なぜなら、

自分が持っている価値観の中で、深く刻み込まれた、

「無い」とは言いたくない

そのネガティブ発信の思いが、私の視界に雲をかけ、喉元を締め付けるから。


その「無い」とは

おばあちゃんの時代から受け継がれてきた。


「無い」という


上書きをしたくない私。

"ない"ことで、メリットを持って生きてきた。

それは、「教員」という安定、

無駄遣いしない、堅実な夫を選んだ安定、

そんな「失敗しない人生」を歩んでこれたのは、

紛れもなく、「無い」を、意識したからの『安定感』からだ。

私は、『安定感』を、確実にもっている。
周りからも、よく言われる。
落ち着いているね、とか安定しているね、とか。
これは、おばあちゃんや、先祖からもらったものだ、と感謝はしている。

しかし、だ。
「安定」を知れた、
それだけで終わっていいのだろうか?

そんな私の心の疼きが聞こえる。

「ない」からこそ、『安定』を知れた。
そして、今、「多様性」を阻んでいるのも、
まさに、この『安定』なのだ。

『ない』にバツをつけようとしている私がいる。

人間のニーズとして、
「安定」と、「不安定(多様性)」がある。
この、「多様性」には、自己成長感や自己受容感をもたらす、ステージアップのKeyが隠されている。


私は、『息子』の姿に、『ない、と思っている自分』を投影していたのだ。

それは、お金に限らず、才能や、潜在的な力に関しても。

『無い』から、努力する。
『無い』から、節約する。
『無い』から、安定を求める。
『無い』から、チャレンジしない。

それが、私の行動パターンであった。
出過ぎたことをしない。
冒険をしない。
失敗をしない。

──だけど。
  達成感や、自己肯定感が、低い。
  いつも不安がつきまとっている。
  自信がない。
  ──そんな、自分。

そうか、私は今、
この殻を脱ぎたいんだ。
新しいステージにいきたいと、
ステージアップしたいと、思えているんだ。

  

ここまで、話をした後、
ゆき先生は私に問う。

「いま、身体のどのあたりに違和感を感じますか。」

「みぞおち……かな。うん、心臓からみぞおちにかけて。」

「わかりました。では、今回のテーマとして、どんな自分であるといいなと思いますか?」

「『ない』じゃなくて、『ある』と思ってチャレンジする自分、そんな自分です。」


そして、目を閉じて、ゆき先生の誘導に従って、意識の旅を始める。


大人の私、
高校生の私、
中学校の私、
小学校の私、
だんだんと時間が巻き戻り…

出てきたのは、


──教室。黒板の前、皆の前で、
「1分間スピーチ」をしている、小学生の私。
うつむき加減で、何も感情が乗っていない、いや乗らないようにした、4文ほどの文章を読んでいる。ぽそぽそとした声で。
ありきたりな、無難な、という言葉がピッタリの、「昨日の放課後にあそんだこと」、そんなタイトルの、つまらない内容の話。放課後に、家で、姉と、一輪車に乗って遊んだこと。
それを、つっかえないように、抑揚もつけず、ただ、読む。
だれも興味ないだろうし、だれのためにもならないだろうけれど、これを読んでおけば大丈夫だ、きっと変には思われない。一応、こなしたことになる、と、その時思っていたことが蘇る。

その時の私は、キーン、むずむず、おそれ、こわい、という体感。


私は、小さい私のそばに寄り添い、声をかけた。
「言えばいいんだよ、思ったことを。感じたことを。自由に。ぽーっていう感覚。そのままでいいよ、着飾らなくても。」


そして、その小さい頃の私は、私に抱きついて、私のお腹あたりに、顔を埋めてきた。

「こわいよ、不安だよ……。認めてくれないかもしれない、あんしんしたなかで自分をだしてみたい」

この言葉を反復して、実際に声に出したとき、
涙がツーっと流れた。

そうだ、私。
ずっと、ずっと、怖くて。不安だったんだ……。
だれにも言ったこと無い。だれにも。
この気持ちを。

ずっと、「不安な私」を、誰にも悟られないようにしていたんだよね。
そうだったね……。


そして、私も、伝えた。
思ったより、落ち着いた思いで。

「大丈夫、
大人になってね、周りの人が、私の書く文章が素敵、と伝えてくれるんだよ。ただ、思ったことを書いているだけだよ?
私の、この声も、好きだと。あんなに、自分では嫌だと思っていたのにね。

だから、いま、表現するのが、楽しい。
等身大の、素の私を。
それでいいんだ、って、わかり始めて来たんだ。たくさんの人に出会ってきて、分かったんだ。」


するとその子は、パアッと明るい表情になった。そうなの?とでも言いたげに。本当に?嬉しい!本当に?と、心が躍っているのがわかる。

しばらく、私達は対話をし、
私は、現実世界に戻った。


 

そして、これからの新しいステージをイメージした。

ビジョンとして現れてきたのは、全体的に、自分をふくめての世界観だった。

そこでは、子ども達のように見える魂がたくさん集っていて、黄金色の光が、四方八方に放たれていた。
こんなに黄金色がはっきりと見えるビジョンは初めてだった。それだけで、胸が熱くなる。
その子どもたちは、自分は「ある!」と信じて疑わず、新しいきらめき、自分の得意なもので表現していく世界だった。
"これは私"という姿は認識できなくても、そこには私の魂もある、と感じていた。
自分にはあるんだ、これができると思ったとき、すごく子どもたちって輝くんだ、そんな当たり前かもしれない、けれど本当の教育の本質を思い出していた。

リラックスした空間で、キラーンって光って、らんらんと目を輝かせている子どもたち。楽しい、本当の楽しさ、自分を活かす、その思いでいっぱいだった。

愛の表現、それを届ける、愛を表現するんだって思って、行動している子ども達。

「愛はあると──。」
「この世界は、美しいと──。」

そういう空間が浮かんできたのだった。

私は止めどなく流れ出す涙で、自分の魂の振動を全身に感じながら、今見た景色を、ゆき先生に伝えた。



ゆき先生は、私をうけとめながら、こう問うてくれた。

「テーマは何だったか、思い出せますか?」

「はい、テーマは、「無い」と思ってるのを「あると思ってチャレンジ」、です」

「わかりました。では、検証してみましょう。今の感覚はどんな感じですか?」

「あるよ~、あるのが当然。そんな感覚です。自然だから、「ある」ことすらわからない、でも「ある」って分かってる。ほわっとした感じです。
自分から枠にはまりにいっていたんだな、と分かりました。枠をはまりにいって、結果を出さないと、認められないと思ってた。
でも、その人にしか出せないものがある。それを自分が出せるって一番信じて表現出していきたいです。
そういう空間が創れたらいいな。」

「とってもいいですね!では、『ない』と言っていたおばあちゃんやお母さんのことを思い出すとどうですか?」

「うーん、なんか、最初は否定の言葉を言われて、"痛い"と思っていたけれど。いまは、"痛くない"!。
私のこと言ってるんじゃない!って分かりました(笑)」

「すごい!"痛くない"というのを得られたのは、本当にすごいことなんですよ」

私は、以前、先生にセッションしていただいたときの感覚を思い出していた。
その時に感じたのは、子どもらしい、本来の自分らしさがいっぱい詰まったもの。
オノマトペで表現すると、
キラーン、るんらら、ピチャピチャ、ギュー、ふわっ、という感じ。

不思議なことに、
この言葉を唱えると、その時の体感覚も蘇り、自分がポジティブに整うのが分かる。

今回も、こうした子どものようなエネルギーの躍動感、素直で純朴で、それだけで光り輝く存在、土台の安心、自信がみなぎる広い世界を、肌で感じることが出来た。



──セッションが終わり、テレビ電話を終了したあと、ふと思い出した。
一ヶ月くらい前、お母さんが言ってくれた一言。

「お前は、地味だけど、
 皆が力を認めていたよ」

私は、派手さはなくても、
私だから咲かせられる、私だけの華がある。
それは、きっと繊細で、潤っていて、躍動的なんだ。それはまるで、暗闇の中でも、たしかに煌めく、月のようなもの。
それを、表現していこう。
これまでの私達で、一緒に創っていくんだ。


これまで、「私にはない」から、頑張る、だと、
結局つらかった。いつも、「無い私」を意識してしまうことになるから。いつも、「あの子には、ある」と比較してしまうから。

はじめから、『自分にはある』と、 自分を信じながら生きていける子ども達ならばどんなに幸せだろうか。
私は、そんな我が子たちに育てたいし、そんな子育てを広めていきたい。



私はセッション後、夕方の園へのお迎えに向かっていた。
パッと対向車のナンバーを見ると、『5115』とあった。

停車後、なんとなく『5115』と検索してみる。これは、ミラーナンバーという、エンジェルナンバー(天使からのメッセージ)と言われているものらしい。
その意味は、こう記されていた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私たちは、自分の見えている世界は自分の外側にあるように捉えがちですが、実際はあなたの世界はあなたの内面が生み出していることを忘れてはいけません。

もし、ネガティブな所に目がいき不満をたくさん感じているのであれば、あなたの視点がそう設定されているということです。

視点をポジティブな方向へ変えれば、あなたが望んだ世界が見えてきます。

あなたが変われば、世界は変わるしかないことを天使達は伝えています。

世界は、あなたが主体で動いています。他人の機嫌をとったり、顔色を伺う必要なんてありません。

自分の世界を確立させ、あなたの考えや心の導くままに行動して、あなたが望む世界を創り出してください。

『変化をチャンスに変えれば、創造的な仕事につながる』

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


私も、自分を生かして、『愛を届ける』仕事をしたい。

どうか、この願い──


──絶対に、叶える。



翌日、おばあちゃんの家に行った。
私が幼少期に暮した家だ。
もう築180年以上となった古民家。

亡くなったおじいちゃんの祖父が建てたらしい。

私の姉もやってきて、皆で談笑している時に、ふと思った。

この家が、あるから、皆が集まれる。

壁の上の方に掲げられた、先祖達の写真  を眺める。

物心ついた時から、その写真の中の人たちは、
とても冷たく、厳しい目で、私を見下ろしているように感じていた。

それが、今日は──
口元が、笑っているように見えた。

あれ?以前は、真一文字に、もしくはへの字口にも見えていたはずなのに──。

そして、その先祖達に。
「しっかりやれよ」
そう、温かく呼びかけられた気がした。

よく日の当たる、縁側に立ち、深呼吸する。
足元に並べられたおばあちゃんのセーターが、とても気持ちよさそうにぽかぽかと熱を受けとめ、そしてまた放っているように見えた。
よく手入れが行き届いた植木が、何本も立派に配置されている庭を眺める。

こうして、連綿と繋がった命を、
いま、戴いている。

家系図を眺め、そこに記載された生年月日・死亡年月日を見ると、
早くに夫を戦争で亡くし、女手一つで頑張ってきた曾祖母がみえた。夫の父母と同居していたので、夫が亡くなってからも、介護等大変であったろう──。

みんな、頑張ってたんだなあ。
あなた達のお陰で、私がいます。
ご先祖様達、ありがとうございます。

その思いが溢れたとき、
前から違和感があった右膝に、じわじわじわとラップで包まれたような感触が広がった。なんだ?と思っている10秒ほどの間に、その波は収まり、改めてゆっくり一歩一歩、足を動かしてみると膝小僧の痛みが消えていた。

(あ、もしかして……)

ご先祖様たちの写真を見上げてみると、相変わらず私を見つめている。

(やってみるよ。見ててね)

心の中で呟き、
おじいちゃんへお線香をあげた。



後日。
息子が学校から帰ってきて、宿題を始めた。
宿題が終わったら、私は彼に、あるものを渡そうとしていた。

そう、「お手伝い」ポイント31回分の、1000円札を。

「宿題終わったー!」
そう言って遊びに行こうとする息子に、
ちょっと、と呼び止め、大事に使ってね、と言いながら1000円札を渡した。

息子は、はにかんだ笑顔で、
「ありがとう。でも今日は使わないよ。公園に行くだけだから」
と言った。

「大事なお金だから、とっておくんだ。
 あのね、欲しいものじゃなくて、本当に必要なものを買うときに、使うことにしたんだ。いままでとは、違う俺。」

へへん、と指で鼻をこするような仕草が似合いそうな、そんなセリフが、彼の口から飛び出てきた。

「ほら、ここに書いてあるでしょ。」

そうして、彼は、ある小冊子を手に取り、見せながら、私に話した。
ポスティングされていた冊子で、まだ私は目を通していなかったものだ。子供向けに漫画で現してあるため、読みやすかったのだろう。


「ほら、ここに、
 『お金が入ってきた場合には、きちんと貯金箱に貯めておき、それには手を付けない。そして、何か大事なことが起きた時に、貯めてあったお金を上手に使う』ってあるでしょ。
貯めておいて、無駄遣いをガマンしたら、貯めたお金で欲しいものが買えるんだよ。
ここに、親の財布からコッソリとる人がかいてあるけど、オレは取らないよ。ちゃんと貯金するし、お店の人には、余分なおつりは返すんだ。」


エンゼル小冊子

トクン、トクン。
私は、胸の高鳴りを感じながら、その言葉を遮ることなく、聴いた。
この子は、純粋だ──。
「なんの刷り込みも入ってない、まっさらな状態なんですね」ゆき先生の言葉が、脳裏をよぎる。

そうだ、この子は。まるで、燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びる、春の息吹を纏った柔らかな若芽だ。まだ、なんの価値観にも染まっていないんだ。偏りがないんだ。ただ、純粋に、「お金」への興味と、使い方を知りたいという探究心、そのものであったのに。
それをどす黒く染まったものに見立てていたのは、何らかの"偏り"があるはずと、見ていたのは、やはり、私の曇った眼であった。
この子は、こんなにも透き通った目で、未知のものと向き合っている。それを、悪者に仕立て上げる私でありたくは、ない──。
曇りなき眼で、我が子を見つめよう。
もっともっと限りなく透明な私で、ありたい──。


私は、彼もそうであろう、心からの安らいだ気持ちと、その笑顔を共に味わった。



子育ては、幾度となく、
私の「偏り」を、気づかせてくれる。
私の心の調律師は、「我が子」に他ならない。
"子は授かりもの"というように、子を天から預からせて戴いている親は、何と恵まれていることだろう。
こんなにも近くで、自身は意識しなくとも、ただ純朴に、ありのままで生きているだけで、埃を払うのを忘れた私達大人に、大切な事を気付かせてくれる。

そうだ。
私は、この言葉が好きだった。
「教育が人を創る」
私は時折、この言葉を思い出す度に、するすると素直に、何でも吸収してしまう子ども達が、より良い価値観をどんどんと自分の血肉とし、自身の魂が求める誠の道を突き進む姿を想像していた。

この子は今、「家系」の流れを汲む価値観ではない、新しい価値観を、自身のものとしたのだ。
それを、自ら。「読書」という方法でもって。

「本に出会う」とは、「人生を変える」ほどの出会いなのかもしれない。新しい「血」を、自分へと還元し、家系に注ぎ込むことなのかもしれない。
なんと、尊い行為なのだろう。昔の人々が、まだ学校にも通うのが大変だった時代の人々が、「本を読みたい」「学びたい」そう、魂からの欲求でもって、道を追い求め、道を切り拓いていった、そんなイメージが、私の中を駆け抜けた。

「貧しさ」。それを、「悪しきもの」とせずに、自らに課せられた課題として、いや、もっと積極的な意味での「原動力」として、一歩一歩進んできた彼ら祖先の、逞しさと気高さを、感じざるを得ない。彼らは、自らの自己実現と、子孫への継承の道を、創ってきたのだ。
子孫は、それを受け取り、良いものは継承し、変えた方が良いものは新しい血肉を入れ、ブレンドしたり置き換えたりする。それが、「発展」の道であったのだ。
「お金・時間・才能が、無い」と否定、断絶された、とばかり、ネガティブを拾っていた私自身の思考の浅さが身に沁みる。


これより後、私は、「発展・繁栄」の思考で
生きることを、決めた。



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