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ありのままの私とみんなのためになる私
依存、コントロール。
ある種の人たちにはもしかしたら魅惑的にも響くかもしれませんね。
でもわたしには見ても聞いても気持ちのいい言葉ではありません。胃のあたりがちょっと固くなったように感じることばです。
ここでは後者の、この言葉に抵抗を覚える人の為に記事を書きます。
いまこの記事を読まれている方の中に、どれぐらい自分自身を「この言葉に縁がある人間だ」と認識されている方がいらっしゃるでしょう。
依存はアルコールや煙草の嗜好品だけでなく、ギャンブルなどの行為、そして人間関係など広い範囲で起こるものです。その中で人間関係で起こる依存はわかりやすいものから見えにくいものまで様々だと思います。
コントロールはいろいろな家庭から社会の様々な場所で働いている力ですが、やはり身近にあっても気づきにくい場合があるように思います。
わたしはこれらの中に身を置かないと決めた後、知らぬ間に行ってしまっていた経験があります。
*~*~*~*~*~*
ある自分にとても親切にして可愛がってくれる人がいました。
情に厚い方でちょっと昔かたぎで、義理堅い人。
そして、ちょっと・・・かなり被害妄想が強い人。
その人がいろいろな出来事を話してくれるのを聞くときは、わたしはいつもその人が持っているであろうフィルター、世間的に言う色眼鏡のようなものを外す作業を欠かしませんでした。
その人はよく思い悩む人で、いつも被害を受けてなにか事件が起こって今しtが、フィルターを外せばなんということはない日常だったのです。相談を受けた時にはいつもクリアな視点を提供するのがわたしの常でした。
わたしはその人が持っているパターンを読んで、一番スムーズに事が流れるようにふるまうようにしていました。
その人が持つパターンは強固で、その上完全に自分を被害者的立場に縛り付けていました。
人は自らが「変わりたい」と望んだ時しか変わりません。
他人が誰かを変えることなどできません。
きっかけを得た当人が自分の意志で変わるだけです。
その上その人は被害者として立ち向かったり、自分を慰めるので手一杯な人でした。耳を傾けるのは自分に理解を示す人――同じ被害者か、援助してくれる人の話だけだったのです。
いま思うとその人の変化を望んだこと自体おこがましい話ですが、わたしはありのままを受け入れるというよりは諦めによってその状況に流されることを選んだのです。
ただその場が上手くいき、その人が内面的な平和を得ることを願って。
それが最善だと思っていました。
違うと気づいたのは、状況が大きく動いてその人と会うことが無くなったからです。
連絡がLINEでのやりとりだけになりました。
細かなサポートが効かない状況で、不安や恐れの強いタイプの人は疑念がどんどん膨らんでいきます。
少しずつ、行間に漂う空気に違和感を覚えるようになり、その人が別の人にわたしとの関係性について相談しているようだと理解しました。
仲の良かった人にこそこそされることほど気分の悪いものはありません。
わたしもその人の性格上十分理解できることでありながら非常にもやもやした日々を過ごしたのです。
そしてふと思いました。
自分は本当は何に対してもやもやしているのだろうと。
思えばもともと志を同じくして一緒にいたわけではないのです。
縁で、職場の付き合いがあったからこその互いの心遣いで、儀礼なのです。
喧嘩でもなく和解もしようもない状況。
しがみつくものでもないしその気もない。
なのに、なぜ。
そこで、自分とその人の間に起きていた力動に気づきました。
わたしはその人との関係性において期待された反応をすることで、無意識に相手をコントロールしていたのだと。
もっとも、気心知れた相手だったので期待に沿おうという意図は全く持っておらず、寧ろキツイことも言ったことはあったのですが、一定の関係性を保てるよう自分自身をコントロールし、距離感もコントロールしていた、そのことに気づいたのです。
コントロールを外れていく、予定調和を失う不安感・・・そいういうものをもやもやした感じや苛立ちとして感じていたのでした。
認識できてしまえばすっきりで、その方とのことはすっきりしたのですが。
そうすると見えてきたのです。
他の方との会話のときにも、自分が受動的な立場にあるときには同じ構図があることが。
自分では完全に純粋にポジティブな意図を持って行っている行為です。
相手を承認すること。否定しない(つっこみは除く)。共感できることは表現する。相手が話しやすいように相槌を打つ。
接客業が長い仕事柄、どうしても会話がスムーズに進むよう、相手が気持ちよく過ごせるよう、全力で頑張ってしまいます。
でも。それもプライベートでは操作なのだと。
業務上の立場を離れた時には、それは提供するサービスとしての意味を完全に失います。ただの操作になるのです。
最初は。ただ皆に幸せになってほしいことがどうしてコントロールになるのか、理解できず受け入れられませんでした。
でも今はわかります。
わたしはその瞬間完全に自分自身ではいないということ。
ポジティブかネガティブか、エネルギーに善悪はなく、ただわたしがその瞬間の力動に純粋なリアクションではないエネルギーを加えているということ。
概念的な書き方しかできませんが。
すごくぶっちゃけた言い方をしてしまえば、ありのままの自然なわたしだと受け入れられないという前提か何かがあって、一見良さそうにみえる歪んだ、でも人から受け入れられやすい自分として反応してる、という感じでしょうか。
この手のコントロールはきっと多くの人が陥っている状況だと思って記事にしました。
「え?それのどこが悪いの?それは必要なコントロールでしょ?ありのままの自分なんてだして、みんなに不快な思いさせたり迷惑かけたりするよりよっぽどいいんじゃない?」
そんな声が聞こえてきそうですけれどね。
それはまた別の機会に。
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