揺らぐ文体がたどり着く先~ぼやきと願い
わたしは物書きではない。
そう自分を認識している。
昔は小説なんかも書いていた。子どもの頃だ。
ただ内側に溢れるように存在するものを表現する方法を模索していた。だから絵も描いたし詩も短歌の真似事みたいなこともした。
土も捏ねてみたし写真も撮った。
でも自分で納得のできるものはできなかった。
だからわたしは物書きでもない。
そんなわたしが何かしらのアウトプットのカタチを求めてnoteに辿り着いたわけだけれど。
そうして居着いているのは広告のないこの真っ白な画面が落ち着いて自分と向き合えるからなのだけれど。
相変わらず物書きではないわたしはまことに文体が安定しない。
脳内、或いはもう少し広いエリアから両腕を伝って流れるものをそのままキーボードに打ち込んでいく。ふと立ち止まって読み返すと「おいおい、えらく文体が固いんでないかい?」なんてことがしばしば。
そうすると船頭が2人になった船のように文体が揺らぎ始める。せめて着地点がしっかりしていればいいのだけれど、アウトプットの場は気づきももたらしてくれる。
そうすると二人の船頭が頭を抱え込む。
結局着地点はどこなんだ?
最終的に「まぁまぁ」とその日の自分に線を引いて、「これもまたよし」とアップロードする。
リハビリみたいなものだ。
ーなんの?
さぁ?
こころの中でわかっている答えは口にしない。
そんなわたしのnoteにもタグを辿ってか時々訪問下さる方もいて。
ありがたいことにスキを下さる方もいて。
読んでくださっているのか中には?な方もいらっしゃるけれど。
そんな方々のnoteを訪問させていただいていて思うのは皆さん文章を書くのが好きだったり、得意だったり、やめられなかったり、とにかく素晴らしいなってことだ。
普通のオノマトペを使っても語彙に限りがあるぐらい、表現しようと思うと困るけれど文章から書き手さんを感じる。エネルギーというのかエッセンスというのか、フィーリングも含めて色んな感性が文章に漂っている。
それは文体だけじゃなくて意図が出しているものも大きい。
わたしの意図は。
わたしがnoteに設定している意図は「ただ偽りなく自分自身であること」だ。多分それが一貫していること。
お店が気になっている人に、少しでもアカシックリーダー、或いは施術者であるわたしの一面を見て安心してもらえれば、とかそういう想いもあるにはあるけれど、そういう意味ではここには赤裸々に自分自身を描きすぎている気もする。
正直オープンな人間ではないので恥ずかしい。
でも意図が「自分自身であること」だから、揺らぐ文体を超えて誰かのもとに届くといいなと思う。
なにがって?
どんなことがあっても、なにがあっても、あなたも自分自身を偽りなく表現していて欲しいってこと!!!です。
そこにたくさんの愛があればもっと素敵だけれどね。
評価を気にすると見えないお化けを相手にするようで苦しくなる。
テレビである評論家の方が万人受けする味のことを「チャーミングな欠点」と前置きして評価されていたのがすごく印象的だった。誰もが求めてしまう幻想だろうけれどそれすら欠点になりうるのだ。
あなたが逃げたら、逸らしたら、ごまかしたら、たった一人のあなたらしさを生きる人は他にいなくなってしまう。
だからそこに真っ直ぐな文章を書いて欲しいなって思う。
わたしは何様でもないけれど。
この素敵な空間に集う表現者たちのファンとしてのことばでもある、かな。
今日もありがとうございました。