書くことが己の癒しになった平安時代
今年放送されている大河ドラマ「光る君へ」
毎週必ずリアタイするほどハマって観ているのだが、主人公である紫式部始め、さまざまな女流作家たちが登場する。
彼女たちが文学を生み出す理由の共通点は「自分の心を癒すこと」だった。
「書くことで癒す」
本作で最初にそう言ったのは、藤原道綱母。
妾という立場で寂しく辛い思いをしていても、その気持ちを文章にして記すことで己を癒すのだと、紫式部に語っていた。
その思いが胸に響いた紫式部は、そのことを清少納言へも語りかける。
身内のいざこざで自ら出家してしまった中宮定子。生きることへも絶望を感じ、塞ぎ込んでいる主人をなんとか慰めたいと悩んでいた清少納言へ、紫式部は「書いてお慰めしたらいかがでしょう」と提案する。
それが、のちの「枕草子」へとつながっていく。
ちなみに、枕草子誕生のきっかけとして、私はこの描き方がとても好きだ。
「たった一人の悲しき中宮のために、枕草子は書き始められた」
そのナレーションで一週間引きずったなあ。
そしてその後も、想い人を亡くした和泉式部に、「楽しかった日々を日記にしてはいかがでしょう」と提案したり、ついに紫式部自身も物語の執筆を始めたりする。
「書いて癒す」
現代でも、辛いときは日記を書いてみようなんてよく見かける。
私は、特にしんどいことがあると頭の中でそれを反芻してしまい、どうしても気を紛らわすことができなくなってしまう。
そんな時、頭の中に浮かんでいることをノートに書き連ねてみると、不思議なことに少しスッキリする。
この現象、私は「頭の容量を軽くする」というイメージだ。
スマホと同じで、脳みそにも容量制限がある。
そこで、大きく容量を食ってしまうデータが入ってくると、当然処理も落ちるし他のことに容量を割けなくなる。
だから、脳みそからそのデータを取り出すことで軽くするのだ。
「インサイド・ヘッド」という映画を観たことのある方は、頭の中に蓄積されるデータのイメージが湧きやすいかもしれない。私もまさに、あんなふうにイメージしていた。
今も昔も、己の心を健やかに保ち、生きていくために「書く」ということがなされてきたのだなと思うと、平安時代を生きた人々のことが身近に感じられた。
※私はあまり歴史に詳しくないので、いつも大河ドラマを観てストーリーを楽しんでは、史実はどうなのかを調べて「へぇ〜〜」などと感心している、ただの一視聴者であること、どうかご了承ください。