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ショートショート 『退屈な日々にさようならを』

久しぶりに会ったあの子は
なんか雰囲気変わってた
昔はもっと汚い笑い方 してたしてたのに
今では君がだれだかわからない

わすれてたこと/カネコアヤノ


気がつくと、頭で考えるより足が先に午前2時の自分の部屋の壁を蹴っていた。
人の性格は、ストレスの程度によって簡単に変容してしまうことがわかった。
今の強度のストレス下の私は、こんなにも子供っぽくて、弱くて、ダサい存在だ。

先ほどからベッドで寝転びながら30回は壁を蹴っているので、
寝ている母親を起こしたらしく、私の部屋のドアをノックする音が聴こえて、
近所迷惑だからやめて?
と言う声がドアの前からしたけど、私の知っている母親の声とは少し違う気がした。
それは、私が今興奮状態だからか、母親が興奮状態だからかわからなかった。

テンションの高い家だとご近所さんからは思われていると思う。
前は、幼馴染が住んでいた向かいの家の方がテンションが高かったけど、
今、その家の姉は福岡、私と同い年の男の子は大阪、弟は東京に行ってしまったので私のこういう奇行が目立ってしまう。

前は、向かいの家の姉が弟を怒鳴りつける声や、末っ子が暴れて家具がひっくり返るような音がしていたけど、今はお母さんとお父さんしか住んでおらず静かなものだ。

私は、大学の後半あたりから急に身体が弱くなった。
それまでは、中学ではバスケットボールをしたり、高校も自転車を乗り回してよく遠くまで遊びに行ったりして体力はあった方だと思う。
大学に入ってからも、サークルの好きな先輩に振られてその辛さを紛らすためによくウォーキングをして、往復10時間かけてショッピングモールまで行ったこともある。

母親は昔から虚弱体質で、立ちっぱなしの全校朝会で倒れたり、
職場で具合が悪くなり休憩室でよく横になったり、友達と約束しても2回に1回は体調不良でキャンセルしたり。そういう人生を送ってきたらしい。
そして、老化と共に体力もさらになくなり、10年ほど前から友達とも会うのをやめて基本家から出ていない。
特別心を病んでいるわけではなく、単に身体が弱いから家から出ないという感じで、買い物は基本ネットスーパーだ。彼女は家事は普通にして、その他の時間は
6畳の和室の自分の部屋で韓国ドラマを見ながらF Xをしている。

F Xは赤字なのか、黒字なのか聞いたことがあるけど、言いたくないと言っていたので、ギャンブルじゃん。と言ってやった。
母親は姉との二人姉妹で、姉は幼い頃から成績優秀で身体も別に弱くない。彼女たちの父親は根っからのギャンブラーで、競馬や競艇で自営業で暮らす家の貯蓄を食い荒らし家族を散々泣かせていたと言っていた。
なのに、母親は今ギャンブルをやっているようなので、ギャンブルじゃん。と嫌味を言ってやったのだ。まあどうでもいいけど。

それ、もうD Vだよ?あんたがそうやって暴れるたびに、私もしんどいんよ
私が母親の注意を無視して壁をコンスタントに蹴っていると、彼女はまだドアの向こうにいたらしく、そう言ってきた。

うるせえ、お前のせいだろ!虚弱体質のくせに子供なんか産みやがって
私はそう怒鳴りつけてから、右足に渾身の力を込めて壁を蹴ると、母趾球のあたりが壁にめり込んで手形のようにくっきりと凹みができた。

ドアの向こうでは、はぁ、とワザらしいため息が聞こえて、母親は自分の部屋に戻って行ったようだった。
私は本来的には、特に性格が悪いわけでも、精神年齢が人より低いわけでもないと思う。
親友に、アミってほんと怒らないよねーって太鼓判を押されたこともあるし。
でも、長期的に続く体調不良やうつ状態、睡眠不足により精神はどんどんと削られて、雨風に打たれ近づくもの全てに噛みつこうとする野犬にでもなった気分だ。

私の体調が悪くなり始めたのは、大学3年生のときから。高校の頃から冷え性と冷えのぼせと胃腸障害はあったけど、体力には特に問題はなかった。
でも、大学のその頃から明らかに体力が落ちてきて、冷え性も年々ひどくなった。冬は上下ともに年々ヒートテックの枚数が増え、しまいには、足の裏と膝にカイロを貼らないと冷えてしまい下痢をするようになってしまった。
大学を卒業してからも、どんどん体調は悪くなり、就いた事務職は半年も経たないうちにフルタイムで働くことに無理が出て退社。

その後、一日4、5時間程度の短時間の事務のパートをしていたけど、2年半ほど続けた後、これも体力が持たなくなり辞めてしまった。
最後の職場は、一緒に働いていた人たちとは仲が良く、その人たちのおかげで前より人と話すことが好きになり、私はおしゃべりキャラで通っていたと思う。
一番仲の良かったひと回り上のパート仲間の森井さんという女性がいて、
彼女が結婚して東京に行く時に手紙をもらい、
「あなたは変わってるけど、愛されキャラで羨ましい。ずっとそのままでいてね」と書いてあった。

仕事を辞めてからも体調は悪化し続けた。社会復帰のために体力をつけようと運動をしても、それが原因で身体に負担がかかり丸一ヶ月、更なる体力低下、動悸、うつ状態になったり、糖質を定期的に摂り続けないと具合が悪くなり、うつ状態になり、吐き気がして、意識が飛びそうになる謎の症状になったり。
そして、動悸が始まると夜の寝つきが異常に悪くなり、朝まで一睡もできないことも珍しくない。

体調が悪くなり始めた大学の頃からあらゆる病院や科で検査をしてもらったけど、異常なしと言われるだけだった。
まあ虚弱体質なんだろうと思う。母親と離婚して家を出た父親は身体は健康なので、この体質は母親のものが遺伝したのだ。
虚弱体質は病気でなく体質なので、病院に行ってもしようがないと最近は新しい病院や先生を探すことを諦めている。
心の底では、誰のせいでもないことなんかわかっているけど、誰かを責めないと心が持たない。そうでないと、なんで自分はこんなに苦しんでるんだろうとやりきれなくなるからだ。

昨日、というか今日の朝に眠剤代わりの精神安定剤を飲んでなんとか眠りについて昼前に目が覚めた。
安定剤を頻繁に飲んでしまうと、それがなければ寝付けなくなるので出来れば飲まずにいたいけど、ストレスが限界だった。
文字通り頭を抱えるようなうつ状態に耐えながら朝まで寝付けないともう死んだ方がマシだと思うことがある。
苦しいだけなら、生きてる意味ってなんだろう。

寝巻きと部屋着は兼ねているので着替えずにそのまま一階に降り台所に行き、
朝食兼昼食のために冷凍うどんを冷凍庫から取り出して水を入れた片手鍋に入れて強火にした。
冷蔵庫の中に入っていたフライパンには昨日の夜に母親が作った鶏肉とピーマンの甘辛焼きがあったので、それを皿に盛り付けて電子レンジに入れた。

朝起きた時に、ベッド脇の壁には夜中に月明かりで見たものよりもくっきりとした足形が見えて、小さい時に暴れた際にドアの近くに空けた穴以来だなと思った。
私はこのまま子供部屋おばさんになって、穴を増やしていくんだろうかと思うとみじめな気持ちになった。
この体調では結婚なんてとてもできないだろうし、一人暮らしだって、今となっては夢になってしまった。

友達に誘われても、体調不良を理由に高頻度で私が断るので、最近はあまり誘われなくなった。
人間関係も確実に母親の後を追って行っている感じに、蛙の子は蛙という文句が頭をよぎることがある。
その度に母親への憎しみをつのらせていくけど、母親のことなんて考えたくない。この前、私が壁に頭を打ちつけながら叫んでいると、母親に注意されたので、
「反出生主義って知ってるか?出産は暴力なんだよ」
って怒鳴ろうとしたけど、最後の良心が邪魔をして言えなかった。言わなくて良かったと思う。セルフリスペクトが底をついて自分が一番ダメージを負いそうだから。

天かすとネギと七味ととろろ昆布を入れたうどんを食べ終えると、糖質不足でブーストがかかっていたうつ状態と吐き気が少しマシになったので、昨日途中まで観ていた今泉力哉監督の『退屈な日々にさようならを』を続きから再生した。

この映画の松本まりかが一番綺麗だよな。
今泉監督は女の子を可愛く撮るのが異様に上手い。監督が撮るキャラクターには
生々しい人間味があるのだ。
岸井ゆきのも『愛がなんだ』が一番可愛いし、玉城ティナも『窓辺にて』が一番可愛い。中田青渚は『街の上で』か『君が世界のはじまり』のどちらが可愛いかな。
今泉監督の作品は雰囲気がダウナーで優しいので、うつ状態に優しいおかゆみたいで最近よく観ている。

ずっと家にいるので、すっかり映画オタクになってしまった。良い映画を観ている間だけは、今のクソみたいな生活から抜け出して映画の中に生きることができる瞬間がある。こういうのを現実逃避って言うんだろうか。
でも、私はその体験を作るために、できるだけリアルな映画を選ぶ。非現実的な世界に逃避するのではなく、できるだけリアルなやつだ。この場合も現実逃避って言うのかな、むしろ現実を浴びる行為な気がするけど。
体調が良ければ送れていた現実、的な。

映画を観ていると、視界の隅にある窓の外に見える庭で、母親が草むしりを始めたのが見えた。昨晩あの後トイレで吐いてたくせに元気だなと思った。
私は、そうではないとわかっていながらも、その草むしり作業が私への当てつけのように思えてイラつき、立ち上がってカーテンを閉めた。

私は、今泉監督が、友達がよくロックバンドのライブをしているライブハウスにトークイベントで来ていたので見に行ったことある。
私がライブハウスに入ると、待合室兼フードコーナーのど真ん中に今泉監督が座っていた。
思ったより背が高くてびっくりした。
お客さんはたくさんその空間にいたけど、たまに握手を求めに行く人がいるくらいで、彼は完全に浮いていた。

私が、大ファンですと話しかけると、監督は「どうぞお座りください」とテーブルを挟んだ目の前の椅子を手で指してくれたので、私は背筋を伸ばしながらおっかなびっくりで座った。
私は、先輩であっても、大学教授であっても、企業の社長であっても恐縮といういうものをしたことがない。基本人のことをナメているからだ。
緊張をすることはあるけど、恐縮はしたことがなかった。
でも、自分の好きな作品を作った監督に向き合った時、初めて恐縮というものを体験した。
ポーズではなく自然に下手に出た自分に驚いた。
私は彼を、リスペクトしていたのだ。

そこから監督と30分近くほぼマンツーマンで映画や脚本について話をするという夢のような時間を過ごしたけど、緊張していたので、あまり内容は覚えていない。
彼はすごくおしゃべりな人で、私が1質問すると応えが10返ってきた。
お互い会話にノってきて、スタッフの人が、今泉さんそろそろトークイベントのお時間です、と声をかけてきても、彼は、「わかりました」と返事をした後に私の方に向き直り「で、あのシーンなんですけど」と話の続きを始めたので面白かった。

私が、東京の映画学校のENBUゼミナールに入学して脚本の勉強をするのが夢なんですと言うと、今泉監督もよく講師をそこでしているらしく、ぜひ来てくださいと言ってくれて嬉しかった。
でも、いまだにその夢は叶う気配はない。

映画の終盤、アーティストのカネコアヤノは公園の遊具の上でギターを手に歌い出した。







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