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【珍しく】ハタヨーガのかな〜り重要な話【特に】

昨日のオンラインワークショップには(やったのよそういうの)、裏テーマとして「空」というのがあった。あの仏教の「空」ね。

世界にはそれそのものだけで確かに存在しているものは何ひとつなく、全ては他との関係性の中で約束事や錯覚やフィクションとして成立しているだけで、それに気づいてしまえばこの世界に執着すべきものも成さねばならないものも失ってはならないものも(自分自身を含めて)何ひとつないので、それはそれは楽になれるよ、みたいなやつ。

よく「ハタヨガは大乗仏教の影響を受けている」とか「ハタヨガの理論は空の理論によって支えられている」なんて話がある。ハタヨガは【見做し】要するに約束事の体系なので、例えばヨガの最終的なゴールである「アートマンとブラフマンの合一(厳密には最初から同じであることに気づくってことだけど)」なんてのも「これこれこういうことをアー&ブラの合一と見做しましょう」て事にしてしまう。そういうのをバラモンとかヴェーダンタやアシュタンガ(アレの事ではない)の正統派?の人たちは「そういうのは本当の成就ではない」と批判する(実際俺もインドでそういうの聞いた)。

だけど「空」の考え方の中では、そもそも本物とか偽物なんて区別すらが存在しない。それもまた「偽物があるから本物とか言えるんだよ」逆に言えば、本物とか宣言する奴がいるから相対的に何かがニセモノってことに堕とされるってことだ。でも、それぞれが相手との関係性を持たずそれ単独で見るならそこに本物も偽物もない。結婚している間だけ夫とか妻とか言えるんであって、別れて相方がいなくなったら独身で「私は夫」とか「妻です」なんていうやつはいない。「誰の?」って事になる。瞑想とか禁欲とか苦行とか言っている大層なスワミにも「本物って何に対しての?」ってツッコんでやればいい。それはともかく、

例えば小さな子供は我々大人のような数の抽象化が確立されていない。大人なら

6÷3=

の計算をする時、数の概念だけで2という答えが出せる。ところが子供はいきなりアラビア数字と計算記号の羅列を見ても、まだそれらの抽象化ができていないのでこれだけでは答えが出せない。ではどうするのかというと、何か具体的なものに置き換えてヴィジュアル化して計算する。6つのリンゴを3つのお皿の上にひとつづつ置いていくと、一枚の皿に2つのリンゴが乗りました。それが答えという訳だ。どちらも出てくる答えは同じだ。この子供の計算法を見た大人が

「そんなリンゴなど現実には存在しない!そんなのはニセの計算だ!」

なんて言ったりするだろうか?


ハタヨーガでは、自分の身体にナーディという回路やチャクラと呼ばれるコンデンサーを仮設(けせつ)して、そこに認識(見たもの聞いたもの触ったもの食べたもの感じた事)や経験がメモリーとして書き込まれた素子が、決められた(※決まった、ではなく決められた、なのがポイント)各所に分類されて並べられる・・それを『心の作用』『意識』『感情』と見做す、つまりそういう約束事にしている。わかりやすいようにね。ちょうど子供の「リンゴ算」と同じなのだ。

つまり、大人が子供のリンゴ算を「そんなものは存在しない!」なんて言っちゃうのがナンセンスなように、ここでいうリンゴが

「在るとか無いとか、そんな話ではない」

のと同様に、ナーディやプラーナ、チャクラにチッタも

「在るとか無いとかの話とは全然違う概念」

なのだ。

ちょうど『空』の第一のスローガンが「あるもない、ないもない」だったりする。何の事かよくわからなそうだけど、これらナーディとかチャクラなんてのがまさに「在るとか無いとかの話とは違う概念」つまり空の考え方そのものなのだ。ここで冒頭の「ハタの理論は空の理論によって成立している」という話と繋がる。

ハタヨーガは、その技法を行う事によってもたらされる達成や変化とかよりも以前に、もっとメタなレベルで、


『ハタの思想を受け入れて実践する事がそのまま「空」を実践している事になるので、ハタをやっていると世界が段々「空」に見えてくる』


のが最大の特徴であり効果なのだ。したり顔の坊主に「この世界は全て縁起と関係性だけで出来ていて、それそのもので成立しているものは何もないのです」なんて言われても、「へえ、なるほどね」で終わるだけでその話を聞いた瞬間に悟りを開いて解放されるなんて事はない。けっきょく話が頭で理解出来ても、そういう見方で世界が染まるほど得心しないと意味がないのだ。そこで「空」の実践とも言えるハタの思想をかりそめにでも受け入れて実践していると、段々

「けっきょく世界全てだって、俺が必死でそういうものだと仮定してやってるナーディやチャクラのヨガの世界と同じ事なんだ」

って気づいて納得してくる訳よ。


チベット密教には「砂曼荼羅」というのがある。床に色砂を細かく撒いてそれで曼荼羅を描き、出来上がった途端にそれをぐちゃぐちゃに混ぜて崩す修行で、それを繰り返す事によってこの世が「空」である事をイヤという程心に刻み込む。壮麗な曼荼羅と見えていたものは実はただの色砂の集まりに過ぎず、箒でひと払いしただけでその曼荼羅と思っていた大層な世界は崩壊してただの砂と化す。いや、そもそも曼荼羅に見えていた間も、実は初めからたまたま色砂がそう見える形に散らばっていただけで、砂を掃き払う前も後も『ただ散乱した色砂』である事には何も変わらないのだ・・ハタヨーガにおけるナーディやチャクラを使った行法も、要はそれと全く同じ事なのだ。我々は心という色砂を、ハタの行法の決まりによってシンボル的に配置しコントロールしただけで、それは在るのか無いのかの話ではない。それを繰り返す事によって、この身体ひいては世界が「空」である事を嫌というほど心に刻み込む。。

そして、そのような効果が成立するのは、昨夜俺が話したような【本来のハタの理論や身体観】で実践するからこその話で、だから、スピリチュアルのようにチャクラやプラーナが「在る」事を前提にするのもダメだし安易に『氣』と混同するのも然り。かといって生理学や解剖学に置き換えてしまうのもダメなのだ。あくまでも

「在るとか無いとかの話ではない仮設として実践する」

事が重要なのだ。スピリチュアル的なチャクラ、プラーナ観も、生理学的な見方も、どちらも

ハタを通して「空」を実践し、体験する

という最重要な契機を全く失わせてしまう。テクニック以前に存在するハタヨーガの本質的な価値を全く無駄にしてしまうのだ。俺がヨガと気功をごっちゃにしたりスピリチュアル文脈で語ったり、なんでもかんでも神経とか生理にこじつけて語るのをあれだけ批判するのはそういう理由による。

昨夜の講座では、このことを重要なテーマとして伝えたかったんだけど、何せノリとか盛り上がりでずっと話してたから、それがちゃんと伝わったかどうかはわからないので、今ここに改めて書いてみた。


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