ビンヤサヨガ
ちょっと思うことあり、現代ヨガの代表格?でもあるビンヤサヨガについて書いてみる。
俺がいつもハタ・ヨーガと題してやっているヨガセッションでは、5時間あったらそのうちの4時間近くをかけて、最後の数十分でやる3つのムドラーという行法(といっても見た目だけでは初心者がやるような簡単なアーサナでしかない)をやるための身体のモードを作っていく。つまり8割がたの時間が、たった3つのポーズのためだけの準備に充てられるのだ。
こういう何かの行法に対する身体の準備の事をヨガでは「ニヤーサ」という。つまり俺のやってるヨガは「ニヤーサヨガ」とも言う。
そしてビンヤサヨガだ。もっとオリジナルっぽくカタカナ表記すると「ヴィニヤーサヨガ」意味的に解体すれば「ヴィ・ニヤーサヨガ」になる。
この「ヴィ」というのは否定語のひとつで「離れる」「無しにする」くらいの意味だ。ヨーガスートラに出てくる離欲という意味の「ヴァイラーギャ」は「ヴィ(離)ラーガ(欲)」の強調形なわけ。
つまり「ヴィニヤーサヨガ」というのは「離ニヤーサ」のヨガということになる。それぞれのポーズなりプラーナヤーマなり行法の前に、それを正しく効果的に行う為の大事な準備作業をやらないでおこうという事だ。だからスピーディに次から次へとポーズや呼吸が連なることになる。
もちろんこれは
「時間のない時の為の簡略化された行法」
な訳ではない。ましてや
「より身体をアクティブに動かす‘陽’のヨガ」
なんて事ではまるっきりない。デコルテがおでこの事ではないくらいに違う。ちなみにヴィニヤーサだろうとビンヤサだろうと、言葉の意味として「呼吸と動きを繋げる」なんて意味は全くない。
では何の為にヴィニヤーサヨガはあるのか?
我らの人生を考えてみればいい。
我々は、ちゃんと勉強をした上で受験に臨むとか、練習を積み重ねた上でマラソン大会に臨むとか、遠出をする前には車にガソリンを入れておくとか、海外旅行に行く前にはその場所の見所や歴史や美味しいレストランを調べておくとか、先が見えている未来に対しては常にそれを最善で迎え入れる為の準備「ニヤーサ」を行なっている。
と同時に、人生には準備無しで対峙しなければならない不慮で予期せぬ出来事も幾らでもやってくる。いやむしろ人生ってそっちの方がメインだろう。仕事に行こうとしたら電車が止まる、なんて些細な事から予定していた事が変わる、財布を落とす、予期せぬ人に会うなんて事から交通事故に遭う、大病が発覚するなんてことまで。
そう、万端の準備をして臨むある種の祭祀的なニヤーサヨガだけでは、人の生のシュミレーションには不十分なのだよ。そこで、次から次へと立ち現れる事態や事象を受け止め受け入れ流していくシュミレーションも必要になる。つまりそれがヴィニヤーサヨガなわけ。
様々なポーズを呼吸にシンクロさせて次から次へと繋いでいく・・それは間違ってない。だけど、例えばアシュタンガのマイソール式なんかでさ、苦手なポーズだけ倍の10呼吸やるとか、特定のポーズの時にインストラクターがやってきて修正を加えるとか、「今のポーズ、もう一度やってみましょう」なんて、そんなの全くもってヴィニヤーサではないのだよね。
君ら、人生に突然現れた不測の事態に
「今のなしでもう一回」
とか、
「楽しく幸せだった時間をもう一度最初から体験しなおす」
とか、そんな事可能だと思うかい?
出来なかったとか苦手なものとかも、その場かぎりで終わらせて流し去らせて次のポーズへ行かなきゃならないんだよ。朝、どんなに眠くてもっと布団の中に居たいと思っても俺たちは起きて仕事に行かなきゃならないのと同じ事だ。
苦手なポーズがあるからって、それのコツだけを取り出したワークショップに出るなんてのもヴィニヤーサではない。人はそれぞれ何らかの条件を持って生きている。容姿が悪かったり良かったり頭の回転が速かったり鈍かったり、身体が弱かったり、生まれつきなんらかの病気や障がいを持ってる場合だってある。
運動神経が鈍ければプロのスポーツ選手は諦めなければならないかもしれない。だけど、人の3倍努力したらそれでもなれるかもしれない。だがそれも人生の中で日々努力していくものであって、ドラゴンボールのように時間の止まった部屋に篭ってそこで若さを保ったまま何十年ぶんも練習するなんてチートは出来ない。
ヴィニヤーサは、準備無しに出会い、そしてたった一度きりで二度と戻ってこない事が重要なんだよ。自分が与えられてしまった条件を受け入れる事が重要なんだよ。人生はそうだってことは、誰でもわかってるだろうに。
朝練?すりゃいいさ。だけどそこで行われたことの「たった一度きり」性を、本番の生に落とし込むものに出来なきゃただの身体エクササイズにしかならない。朝練が終わったら普通の生活に戻れ。朝練で感じた反省点や後悔は流すしかない。人生の反省はその人生のなかでしか取り返せないし、後悔はしてもしょうがない。俺たちは人生の中に閉じ込められていて生きている限りそこから出る事は出来ないし、ズルもチートも近道もあるはずがないんだから。朝練だかレッスンだかのために(ヨガに練習とかレッスンて言葉使うの、俺は一番大嫌いだけど)、股関節を開くコツとか、苦手なポーズを克服するテクニックとか、そんなのほんとうにやる方も求める方も
「あなたたち、一体何のためにヨガやってんの?」
としか思えない。それはヴィニヤーサヨガではないだろう。競技とか稽古事、まさにあなた方がよく使う「レッスン」でしかない。
身体に触ってくるインストラクターも、そういう「コツ」という本当は持ち込めない近道や効率化を実践者に勧めてくる指導者も、本気でヨガの事を考えたことなんかない連中ばかりだから、ヨガの本質的な生との親和性を阻害して、「出来ない→出来る」という単純な成就主義の価値観がヨガだと思い込んでそういうふうに教えている。だけどそこには
「俺たちは人生に閉じ込められてそこからは決して出られない(だからそこで起こること全てを、そこで課されてしまった条件全てを、そこで受け止める覚悟を決める)」
「過ぎ去ったものは二度と帰ってこない」
「だから流れを感じ」
「何かを成し遂げ、何かになろうという事ではなく」
「ただ前に進むしかない」
という、ヨガだけが教えてくれる独特の‘よりよい生’は無い。
欧米人が考える「この世は勝者と敗者に分かれる。ならば勝者になろう」を世界普遍の生き方だと単純に思った連中が、どうせヨガもそうだろうと誤解して、そういう成就主義や達成主義をヨガに持ち込んでいるに過ぎない。
よく
ビンヤサとは「最上のニヤーサ」という意味です
なんてデタラメな説明を目にするけど、この間違い方のとんでもないところは、ビンヤサの肝である
「なんでビンヤサはヨガにとって最重要であるニヤーサを取り除いているのか?」
って事を疑問としてもつ可能性を完全に殺してしまっている所だ。このデタラメ説明は
「本来ヨガで重要な式次第である付置(ニヤーサ)を省略する・・これの意味は何なのか?」
という、ヴィニヤーサの本質に気づく為の重要な契機を完全に封殺している。こんなん、生徒に
「永遠にヨガの本質に気づけないように」
って呪いを掛けているようなもんだよ。俺には、ヴィニヤーサヨガをやってる連中こそが、実はヴィニヤーサを馬鹿にしてナメてるようにしか思えないけど。本当はそんな薄っぺらなもんじゃないからね。
ヴィニヤーサこそが人生
その意味を取り違えないでほしい。