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「推し」がいないことがコンプレックス

「推しはいる?」と聞かれることが、最近当たり前になっている。アイドル、漫画、アニメ、ゲーム、ファッション――何かに熱中している人やものを「推し」と呼び、その存在が自己紹介の一部になっている。

しかし、私は「推し」といえるほど夢中になっているものがない。広く浅くしか好きになれない自分に、少しコンプレックスを感じている。

「推し」が社会の一部に?

「推す」という言葉はもともと「推薦する」という意味だが、今では特に若者の間で、自分が情熱を注いでいるものを表現する言葉として定着している。応援しているアイドルやキャラクター、ブランドなどを通じて、共通の話題で盛り上がることができ、コミュニティにも簡単に馴染める。

それは、一種の「社会的なパスポート」のような役割を果たしている。

しかし、私は、ライブに行ったり、全巻揃えたり、グッズを集めたりするほどの熱中がない。もちろん興味はあるし、いろんなものが好きだけど、それを「推し」として表現するまでに至らない。

だから、「推しはいる?」と聞かれた時に、少しだけ気まずさを感じるのは、どこかで「推しを持たない自分は何か欠けているのかもしれない」と思ってしまうからかもしれない。

推しはアイデンティティの証明?

推しがあることで、自分を他人に説明するのが簡単になる。推しを共有することで、同じコミュニティに属している感覚も得られる。しかし、それは単に個人の好みを表すだけでなく、社会的な役割を果たしているのかもしれない。推しを通じて、私たちは社会との接点を持ち、そこで承認を得ている。

けれど、推しがいない自分はどこか「属していない」ように感じることがある。社会が期待する「推しを持つべき」という無意識のプレッシャーの中で、私は本当に自分の意思で動いているのか?それとも、ただ周りに合わせようとしているだけなのか。その境界は曖昧だ。

自己紹介用の推し

そんな中、私は自己紹介用の推しを持っている。それも、相手によってその推しを変えている。初対面の自己紹介であれば、そこまで探られないので、ある程度の知識があれば、それをもう推しとしてしまうのだ。

これはある本で読んだ「アバター主義」と似ている。

著者の池上は「アバター」とは、自分のなかにある部分・気持ちを形象化した分身を使い、他の人びとと交流する形態を指している。自分自身は一貫しておらず、「相互依存的」かつ「発展経路依存的」であり、動くものとして自分がつくられていく、としている。

私自身は、アバター主義にある程度賛同している。正直なところ、特定のコミュニティでうまくいかなくなると、その自分を全て変えたくなることがあるし、その自分を知っている人々との関係を断ち切ることもある。

こういう私の性質が、特定の推しを持たない、持てない自分をつくっているように思う。

「推しがいない」自分をどう捉えるか?

推しを持たないことで感じる不安定さは、現代社会が抱える新しいプレッシャーかもしれない。かつては職業や家族がアイデンティティを決めていたが、今では趣味や推しがその役割を果たしている

そして、推しがあることで承認を得やすくなっている現実がある一方で、推しがないことが社会からの疎外感につながっている。

しかし、推しがないことも個性であり、広く興味を持つことだって自分らしさの一部だ。「推し」を持つかどうかは、自分で選べるはずだが、今の社会ではそれが当たり前すぎて、自分らしさを見失いがちになる。推しがあることで得られるつながりはよきことだが、推しがないこともまた、自分の生き方の一つとして尊重されるべきだろう。

まとめ

私が抱えている悩みを記事にしてみました。推しがいる(ある)人って羨ましいと思ってしまうのも事実。でも、いないのも別にいいよね?と思いたい自分もいます。

信じるものがあるって強いです。これがあるから頑張れる。この人に憧れるから、この仕事をやりたい。色々あるかもしれません。

推しを持つことが新たな社会的役割として浮上している一方で、その文化に流されすぎていないか、自分自身に問い続けたいです。

(友達の推し活に参加するのは超楽しいです!!)

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