馬鹿と鋏は使いよう

現行の様々な制度も使いよう。

教育。

合理的思考。

感情・直観的洞察力。

外国語でストーリーを学ぶことの有用性。

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内面的経験の記述の妙に偏る傾向はないか?内面で起こる事象をあたかも対象物のように扱っているのでは?

確かに、「これ分かる!」と思わせる絶妙なメタファーやたとえ話はあるし、そういう記述は、センスがあるか、読み込み、書き込んでいないと難しい。文豪が文豪たる所以。

一般人が求めているのはそういうものなのだろうか?

私は違うと思う。

技巧に優れた記述が理解され、愛でられるかどうかは、読み手側のセンスや、読書歴、蓄えられた知識の量や質にも依存する。つまり、より多くの「読まない」人間にとってはあまり興味を惹かれない。

大事なのはコミュニケーションの視点。

勿論、書き手と読み手の間にはコミュニケーションが発生している。

ただ、コミュニケーションは、テキストを介したものだけとは限らない。媒介になるものは、言葉だけでもない。

コミュニケーションは、一体何をもたらしているのか?

圧倒的多数は「よく似ているもの」「あまり違いが分からないもの」の交錯。

我々現代人は、「違い」(「コントラスト」)に注意を引かれがちなのでは?

大切なのは、パッとは違いが分からないもの。

微妙な違いに気付くことがもてはやされ過ぎているのではないか?

似ていることで得られている安心感。

「似ている」ということは、「全く同じ」ではない。

「違い」は、摘出され、分離されるのではなく、そのままにされる。

それがいい。

Millhauser'The Place'(Voices in the Night)

似ているものが交錯し、すれ違う時に起こるさざ波のようなもの。微妙な振動。

やはり、神は私たち一人一人の中にあり、それはロジック。

21世紀の信仰対象は、一人一人の内なる神となるべきでは?

日常的は表現では、「自分自身を信じること」。

ただ、「自分自身」というものも、きちんと定義できる対象物ではないし、信じると言い張っても、それではあまり住みやすい社会はもたらされそうにない。どちらかというと、不要なカベを作り、不幸なケースでは、諍いや暴力的対立にまで発展してしまう。

個々人の内面で起こる事象にせよ、「自分自身」にせよ、安易な対象化を乗り越えるためにも、宗教的な要素は不可欠だろう。

私たちをロジックに導くような宗教心。

トマス・アクィナス。

国境に拘っているうちは、偶像神リヴァイアサンの餌食であることに変わりがない。

むしろカベは立てる。責任を持って。そして一人一人が内なる神の国を造る。神の国はカベだらけ。しかもその壁の建て方に、「これがべすと!」というものはない。

カベや境界線は、論理を無視しては建てたり引いたりできない。

論理こそがやさしさ。

論理を諦め、他者のやさしさにすがるから争いが絶えない。

勝手な思い込みは論理無視。

論理的追究を継続するにはコミュニケーション。

似たものがすれ違う時に起こるヴァイブレーション。これをまずは感じ取ること。

正体を明らかにするのではない。

自分の中に引かれた線をロジカルなものとするには、すれ違いで起こるヴァイブレーションがもたらしてくれる快感でもって、勇気を得なければ。

これがあれば、安易に他者のやさしさにすがることなく、自他の違いを共に尊重する、やさしい社会に近付けるはずだ。

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