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美術史第71章『オスマン美術』


セルジューク

  先述の通り、11世紀頃にはチュルク系オグズ族のセルジューク朝が中央アジア、西アジア、東ヨーロッパに跨る大帝国を築き上げており、内部に多くの地方政府を抱えていたのだが、12世紀末期には金王朝から逃れてきた契丹族の中央アジア征服により多くのチュルク系民族が領土内に移住した。

 セルジューク政府はそれらを制御できず、反乱が発生してしまいセルジューク王家は滅亡、地方政権のみが残り、その内、ホラズム地方を統治していたホラズム・シャー朝がセルジューク朝の領土の大部分を統一し繁栄した。

ルーム・セルジューク朝

 その一方でもう一つ、かつてギリシア人を主体とするローマ帝国の後継国家ビザンツ帝国が統治していたアナトリア半島に設置されていた”ローマのセルジューク朝”を意味する地方国ルーム・セルジューク朝も残って繁栄した。

ルーム・セルジューク時代の「インジェミナーレ」

 イスラム勢力に支配されたアナトリア半島で展開された美術はペルシアやシリア・エジプトのイスラム美術の折衷的な美術であったとされ、明確に様式を判断するのが困難な場合も多い。

ペルシア語の詩集「精神的マスナヴィー」の写本
ギョク神学校

 工芸分野では木工芸が発展、絵画では写本のミニアチュールも盛んで、建築では通商路に商品を運ぶキャラバンのための取引所・宿泊施設であるキャラバン・サライが多く作られ、建築装飾の分野では人物や動物、鳥など本来のイスラム教で禁止されている偶像の描写も多く行われている。

タブリーズの青のモスクの内部

 一方、セルジューク朝の主体となった遊牧民のチュルク系オグズ族の美術はあまり知られていないものの、「タブリーズの青のモスク」など数多くのモスクを建てていたとされ、これは後の時代の美術に大きな影響を及ぼすこととなった。

 このように繁栄したルーム・セルジュークだったが13世紀、内乱で弱った所にホラズムとアッバースを滅ぼして中東を支配したモンゴル帝国が到来、ルームはモンゴルの中でも中東を治めるイルハン朝に服属、時が経つと完全な傀儡国家となった。

ベイリク諸国

 13世紀後半には領主の反乱やマムルークのバイバルスのモンゴル攻撃に呼応したクーデターなどが連続し、「ベイリク」と呼ばれる小国家がアナトリアに乱立、14世紀にはルーム・セルジューク家が滅亡、その中でオスマン族長による国が拡大を始め「オスマン帝国」が誕生した。

 オスマンの子オルハンはビザンツに侵略しアナトリア全域を征服、ビザンツが内戦でオスマンと協力した事で、アナトリアを越えバルカンの一部を領土とし、ビザンツの首都コンスタンティノープルや、ブルガリア帝国、セルビア王国などを支配下に入れていき、一時的にビザンツが領土を取り返すが結果、メフメトによりバルカン半島全域を征服した。

オスマンの領土

 その後も領土拡大を続け16世紀にはセリム王がサファヴィー朝の侵略を跳ね除け、マムルーク朝エジプトを滅ぼし西アジアとエジプトを手に入れ、次のスレイマン時代には中央ヨーロッパまで軍を進め、北アフリカ諸国を支配下に入れ流などし、西アジア、北アフリカ、東ヨーロッパを支配する大帝国となった。

 このオスマンは美術では建築を保護し、丸天井を用いる事で統一感のある空間を作り出そうとする試みが行われ、陶芸の分野では赤土を原料とし白に青の模様が描かれたミレトス陶器などのような青と白を用いた固有の特徴が誕生した。

イズニク陶器
スィゲトヴァール包囲戦のミニアチュール

 オスマン帝国支配下の広大な領域には当然、建築や、陶器、特に「イズニク陶器」と呼ばれる白地に青で緻密な模様が描かれたものなどの大量生産や、宝石加工や写本のミニアチュールなど多くの美術が存在し、これらは重要な貿易相手だった中国やペルシャなどの東洋、そして西洋美術の中心地の一つだったヴェネツィア共和国などの西洋の両方と盛んに交易を行い影響を受けた事にも要因があるかもしれない。

アヤソフィア

 建築ではビザンティン建築を受け継いだドームが多く出ている形の「オスマン様式」の「大モスク」などが確立されており、1453年にメフメト2世がビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープルを陥落させた後、カトリックではないキリスト教の正教会の中心であるコンスタンティノープル大司教がいた大聖堂「アヤソフィア」などの建築が知られるようになった事が要因とされる。

ミマール・スィナンと思しき人物
セリミエ・モスク
スレイマニエ・モスク
ソコルル・メフメト・パシャ橋
リュステム・パシャ・モスク
テッサロニキのホワイトタワー

 他にもそして石工生まれの軍人で世界で最も有名な建築家の一人であるミマール・スィナンという人物がその様式で「セリミエ・モスク」「スレイマニエ・モスク」「ソコルル・メフメト・パシャ橋」「リュステム・パシャ・モスク」「テッサロニキのホワイトタワー」など数えきれないほどの著名な建造物を建設した事も重要である。

祝典の書

 またミニアチュールに関しては14世紀末期のムラト1世の時代に多くの挿絵が描かれた「祝典の書」などが作られており、その後の16世紀初頭にサファヴィー朝ペルシアに勝利した際の戦利品としてオスマン帝国にやってきた美術品達の影響を受けたとされる。

 これにより陶芸ではイズニク赤と呼ばれる赤い顔料が発明され、16世紀中頃にスレイマン王の命で作られた「スライマニエ・モスク」にあり、現在はロンドンに保管されているランプやタイルなどにもこの顔料が使われているのが残っている。

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