美術史第74章『中国の絵画と書道についての概論-中国美術2-』
・この記事はかなり量がある中国美術史の前に押さえてほしい部分の話をするもので、まだ、他の記事のように本格的に歴史を語るものではなく、歴史を語るだけでは見えない全体の大まかな特徴や一ジャンルの流れのようなものを見ていただきたいと思って書いたものです。
絵画について
中国において絵画は古い時代には土器や青銅器に描かれていたが、独立したものとして発展を始めるのは秦代から漢代で数多くの観賞用絵画が描かれたが素材の布が腐る事、建物が破壊された事などでこの時代の絵画は一部の石窟寺院にしか残っておらず、唐の時代の8世紀までには人物画や着色画が盛んとなったことはわかっている。
その後、水墨による「山水画」や「水墨画」が文人、つまり中国の国教だった儒教を身につけた知識層に愛好されるようになり、それ以降、職業画家の「北宗画」と文人が描いた「南宗画」が誕生、董其昌の影響で文人の描いた画が素晴らしいとされるようになり、それ以降、職業画家のものではない文人画が中国絵画をリードしていく事となった。(*検索すると上に挙がる兵庫県立美術館などのサイトなどでは北宗画と南宗画の違いを画風としていますがそれは間違いです。)
文人画の中でも特に山水画、つまり自然を描いた風景画が繁栄、これは風景画がジャンルとして確立されたのがかなり近代である西洋美術に比べるて考えると特徴的であるとも言える。
また、中国においては絵画に対し、「生まれ育ちが良く人格が優れた人間しか良い絵は書けない」といった、作者の人物像が作品に影響するという価値観や、詩と絵画は根本は同じで切り離せないものであるという考え方を持ち、技法に関しても透視図法と明暗法を用いる西洋絵画とは異なる表現が取られた。
特に透視図法に関しては郭熙の分類によると高遠(仰角)、平遠(水平)、深遠(俯瞰)の三つの遠近感の表現「三遠の法」があるとされ、山水画ではそれら複数の表現法が同じ絵画の中に存在していることもあり、明暗法に関してはそもそも反射や影、暗さなどを描く風習がなく夜を描く際には蝋燭などで表現された。
これは「絵画は見たままではなく物の本質的な姿を描写する」という中国の思想が元になっているとされ、この思想による人物画はただモデルの似顔絵を描くだけでなく、その人物の人間性も描き出さなければならいとされる。
書道について
そして、話を移して書道についてだが、まず中国においてはラテン文字、キリル文字、アラビア文字、インドの文字などほとんどの世界中の文字がヒエログリフの遠い子孫であるのに対し、それとは関係のない黄河流域で独自に開発された文字である「漢字」が使われている。
この漢字は作りが複雑だからなのか誕生した当時から美術の対象としてみられていたようで、様式美が追求されていき、早い時点で「書道」が確立され、最古の漢字が記された甲骨文でも既に様式美がある程度は確立されているといえ、「鍾繇」の登場以降、書家が芸術家として評価されるようになり、晋の時代には貴族により骨・肉・筋をもつとされる洗練された書道が誕生した。
また、書道では多くの書体が生まれており、代表的なものとしては篆書体、隷書体、草書体、楷書体、行書体が代表的があり、最初は周代の頃に青銅器に刻まれた「金文」が戦国時代に整備され現在でも印象に用いられる「篆書体」が誕生する。
その後、秦の始皇帝が中華帝国を建国すると膨大な文書が書かれるようになったが篆書体では書くのに時間がかかるため簡略化した「隷書体」が誕生、また、この頃には秦の将軍、蒙恬により筆が改良され毛筆が誕生したとされる。
その後の漢王朝時代初期に隷書体をさらに崩た「草書体」、さらに隷書体を早く書くための「楷書体」と「行書体」も誕生、その後の時代には蘇軾、米芾、董其昌などの著名な書家が多く登場した。
その後の各時代の書道の特徴しては晋代は自然趣味、唐代は技法趣味、宋代は思考趣味、元代と明代は形態趣味、清代は学問趣味と一般的に区別される。