美術史第81章『魏晋南北朝美術-中国美術8-』
漢は黄巾の乱という中国全土を巻き込んだ非常に大きな農民反乱とその鎮圧後の残党による反乱、そして、西方の王国と遊牧民の連合による反乱などが起こり、民衆の不満も豪族の不満も募り弱体化した。
そんな中で起こった軍人の袁紹による宦官虐殺の混乱の中で皇帝を保護して覇権を取った董卓だったが、袁術ら反乱軍との内戦が勃発、次第に各地で群雄が割拠し始め、董卓は最終的に部下の呂布と王允に殺され、彼らも李傕らが破ったがさらに曹操という大きな勢力を持っていた人物に敗北した。
漢の皇帝を支配下に置いた曹操は中国北部一帯を支配する袁紹を滅ぼして大勢力となるが3世紀初頭には中国南西部を支配した劉備という人物の勢力と、南東を支配した孫権という人物の勢力が「赤壁の戦い」で曹操を北方に追いやることとなった。
そうして劉備、孫権、曹操による三国時代が展開、劉備には周瑜、陸遜、趙雲など、孫権には諸葛亮、関羽、張飛、曹操には荀彧などが支えて曹操が勝利した潼関の戦い、孫権が勝利した濡須口の戦い、曹操が漢中を制圧した陽平関の戦い、曹操が孫権の侵略を跳ね返した合肥の戦い、孫権が勝利した濡須口の戦い、孫権が荊州を制圧した樊城の戦いなどの争いを繰り広げた。
その間に曹操の息子の曹丕が禅譲を受け魏を建国、孫権はこれに従属し、劉備は対抗して蜀を建国、しかし、曹丕は孫権の荊州を「夷陵の戦い」で侵略、孫権は呉として独立し、石亭の戦いで魏に勝利、美術においては呉で孫権に下で曹不興という中国初の仏教画家ともいえる著名な画家が活躍し、江南に仏教寺院を建てている。
その後は魏で呉の諸葛亮の攻撃を撃退した司馬懿がクーデターを起こし、司馬一族がそのまま蜀漢と呉を滅ぼし中華統一、3世紀後期、司馬炎により洛陽を首都ととする晋王朝が建国された。
しかし司馬炎の死後には八王の乱という内乱が勃発し、4世紀初期には内戦で多くの北方騎馬民族の傭兵が用いられたためそれが台頭、匈奴族に建てられた前趙は洛陽を占拠し晋は滅亡、四川省では成漢が成立し、その後もクーデターや独立で数多くの国家が誕生し華北は混乱を極め「五胡十六国時代」を迎えた。
その一方、晋王家は常に比較的平穏だった華南に移り建康(南京)を首都とした東晋を樹立、ここには北の戦乱から逃れてきた人々が多く移住し発展、その中で貴族が多くの土地を所有するようになり増長した。
晋代から五胡十六国時代には後漢の時代にクシャーナ朝から伝来したインド系の新興宗教、仏教が仏図澄、鳩摩羅什、法顕などの活躍により大乗仏教が中国に定着し始め、慧遠は浄土真宗を開き、ガンダーラの小像を元にした仏像の製作が盛んに行われた。
東晋では日本でもよく見られるあの中国風仏像が誕生、首都の健康では仏教美術が繁栄し、同じ頃には劉裕が晋に代わり宋を樹立、5世紀後期には斉、6世紀初期には梁、6世紀中頃には陳と王朝が交代していった。
一方、華北では鮮卑族の北魏が全勢力を統一して五胡十六国時代が終了、それ以降は時代は北魏などの北朝、東晋の後にできた国々を南朝として「南北朝時代」と呼ばれる。
北魏は華北統一の中で僧侶数千人を捕虜とし首都に移住させていたことから仏教の力が強まるが、太武帝は仏教を迫害、しかし次の文成帝は仏教を保護、仏教遺跡として世界最大規模の数の彩色塑像と壁画が残された「莫高窟」や大量の仏像が保存されている「雲崗石窟」を筆頭に「炳霊寺石窟」「麦積山石窟」などが作られた。
これは当時、中央アジアに広まっていたグプタ時代のインド美術の様式に近かったが、孝文帝が洛陽に遷都してからは「雲崗石窟」に代表されるように、支配層の鮮卑が中国人に同化するための漢化制作の一環として南朝で栄えた中国風の仏教美術様式が採用されるが、北魏はこういった漢化政策をきっかけに東西に分裂することとなった。
一方、東晋の後の宋・斉・梁・陳の南朝では東晋の時代と同じく貴族の力が大きかった事で、貴族は音楽や文学ともに美術を行い、当時「史上最高の画家」と評されるほどの実力を持った画家である顧愷之という画家の登場以降、絵画は高度な技術と芸術性を持つようになり、彼は後世には「名画の祖」とされることとなった。
また、他にも宗教画の張僧繇なども活躍した。
4世紀後期には王羲之と王献之の親子により書道が急速に美術として発達していき、さらに5世紀初頭には山などの風景を描いた「山水画」という後に巨大なジャンルとなる様式が誕生した。
そして、6世紀中頃には謝赫により六法という絵画を評価する基準が理論化されることとなり、また、貴族の画家以外にも画家を職業にする張僧繇などの人物も存在し、この張僧繇は簡潔な筆使い、陰影を用いた立体表現を用いた仏教絵画を描き、後の時代の仏画の基本となったとされる。
しかし、この時代の絵画は大抵現存せず、残っているものとしては墓に描かれた壁画がある。