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月例講演会……トーハク東洋館で絶賛売出中の《舎利容器 TC-557》について @東京国立博物館

前回noteの続きで、2024年12月の東京国立博物館(トーハク)月例講演会『大谷探検隊が収集した西域の美術』について、断片的に残っている記憶を便りにnoteしていきます。
※先ほど間違えて公開してしまいましたが、あまりにも文章が整理されていなかったので、一旦非公開にして整理したうえで改めて公開しました。

前回は、身元不明の《菩薩立像 TC-818》がトーハクに寄贈される際に、どのように由来を探っていったか……といったようなことを、講演会で聞いたことをもとに記しました。以下は、その講演を聞いた後に、わたしが調べたことも混ぜ込んで書いていきます。そのため、必ずしも講演者の話したことではありませんので、紛らわしいのですが、不正確な部分もあるというのを心に留めながら読んでもらえればと思います。


■大谷探検隊と《菩薩立像 TC-818》の由来をおさらい

《菩薩立像 TC-818》

現在、トーハク東洋館に展示されている《菩薩立像 TC-818》は解説パネルによれば、(わたしは確証を得ていませんが)第3次の大谷探検隊で敦煌の莫高窟という場所で発掘されました。この発掘に立ち会ったのが吉川小一郎さんという方です。吉川小一郎さんは2軀の塑像を発掘し、現地の道士(僧侶?)から購入し持ち帰ったと証言しています。2軀のうちの一体が、トーハク所蔵の《菩薩立像 TC-818》であり、もう一体が、講演会によれば「羅漢像」だったといいます(羅漢像については、現在どこにあるか不明)。

とにかく吉川小一郎さんは、《菩薩立像 TC-818》をはじめ膨大な量の古物と一緒に帰国……するのですが、帰国直前には大谷探検隊の発起人というべき大谷光瑞さんが、浄土真宗本願寺派の法主、西本願寺の住職などをクビになり、隠居させられていました(隠居という言葉が妥当なのかは不明)。要は、伯爵大谷家は財政破綻に陥り、その財政を立て直す意図で本願寺などの資金が不正に大谷家に流れていたのでは? などの疑いをかけられて失脚したということのようです(詳細は不明)。失脚と同時に、大谷家の別邸として建てた……大谷光瑞のコレクションを保管・公開もしていたっぽい……二楽荘も、そのコレクションとともに売却することになります。買い取ったのは日立や日産などのもととなった久原財閥の総帥・久原房之助さん。講演会では語られませんでしたが、結果的に大谷光瑞さんとは旧知だったという、この久原さんの手に渡ったところから、大谷光瑞コレクションは散逸していくことになるようです。

この時、《菩薩立像 TC-818》に限って言えば、どうやら古美術商の「繭山龍泉堂」を経由して、井上恒一さんの手に渡ったようです。そして井上恒一さんの亡くなったあと……2022年にトーハクへ寄贈・収蔵されることになります。

■《舎利容器 TC-557》

前述した《菩薩立像 TC-818》と同様に、第三次の大谷探検隊で吉川小一郎さんが手に入れて持ち帰ったのが(現在は展示されていない)《舎利容器 TC-557》です。

《舎利容器 TC-557》の解説パネルには「中国・伝スバシ|6~7世紀|木製布貼彩色 大谷探検隊将来品」と書かれています。講演会では、この「伝スバシ」という点に焦点を当て「本当にスバシにあったものなのか?」を探っていきました。ただ……この時の記憶がほとんどありません。ただ、講演会の配布資料には「第3次大谷探検隊の隊員であった吉川小一郎によれば、この舎利容器は、中国の西北部に位置する新疆(しんきょう)ウイグル自治区クチャ地域を調査した際、クムトラ石窟のストゥーパ跡から出土しました」と記されています。スバシとは、Wikipediaによれば「新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ市郊外にある仏教遺跡」とあるので、まぁ「伝スバシ」でも間違いではなさそうですけどね。

わたしが講演時に書いたメモだと、「クムトラのストゥーパから発掘」といっしょに「ドゥルドゥルストゥーパ」と……これは聞き取れなかったのですが、そんなような発音だったような…というのをメモした記憶があります。

とにかく重要なのは、長らく「伝スバシ」と思われていた……もしくは他の場所で発掘されたと思われていてパネルにそう書かれていたとしても、本当に正しいのかは分からないものがある……おそらく大谷探検隊将来品については特に……ということのような印象を受けました。

発掘場所については、今のところ興味がそそらなかったのですが、この《舎利容器 TC-557》が展示されているのを初めて見た時には、そこに描かれた絵画に目を見張った記憶があります。そのため色んな角度から、この容器を撮りまくったんですよね……。

この《舎利容器 TC-557》に描かれた絵画については、講演会で熱く語られていました。今回の演者だった研究員の勝木言一郎さんによれば、今、東洋館の中で絶賛売出中……一番の推しが、この容器なんだそう。そのため、ミュージアムショップには、勝木言一郎さんがオーダーして作ってもらった、《舎利容器 TC-557》をモチーフにしたクッションだかぬいぐるみだったかが販売されているとおっしゃっていました(美術展ナビを読んだら、クッションやキーチェーンになっていました)。今度見てみたいと思います。

解説パネルによれば、この容器は「丸太を轆轤(ろくろ)で成形し、その外側に麻布を貼った上に彩色を施しています」とありますが、より詳細に記された講演会資料には「轆轤(ろくろ)を使って丸太の内側をくりぬき、形をととのえ、外側に麻布(あさぬの)を貼り、その上に色を塗っています」のだそう。たしか……記憶によればなのですが……日本へ持って帰ってきた時には、表面に土だかが激しく付着していて、なんの模様も見られなかった……と言っていた気がしますが、この容器のことだったかは不明です。

現在は色鮮やかな絵画が暗い展示室でもはっきりと見られます。勝木言一郎さんは、特に蓋に描かれた図様に注目してほしいと力説していました。その「蓋にはさまざまな楽器を演奏する翼をもった人物や、オウムやキジに似た鳥描いています。鳥の翼をもつ者もいれば、虫の翅(はね)をもつ者もいます」ということ。言一郎さんによれば、鳥の翼をもつ人物像は珍しくないのですが、虫の翅(はね)をもつ人の姿が描かれているのは、とても珍しいというか、他にはないと言っていた気がします。

講演会では真上…真俯瞰から撮った画像で、蓋に描かれた像を説明していました。記憶があいまいですが、たしか鳥の羽根を持つ人と虫の翅を持つ人が2人ずつだったような……。上の写真が鳥の羽根…下の写真が虫(トンボっぽい)の翅です。

さらに「オウムやキジ科の鳥を、身の表面には仮面舞踊や楽団をそれぞれ描いています」と語られていたとおり、様々な様子が描かれていました。

ということで、次に《舎利容器 TC-557》が展示されるのがいつになるのか分かりませんが、次回の展示を楽しみに待ちたいと思います。

■かつて金箔で覆われていたもう一つの舎利容器

講演会では、現在展示されているもう1つの《舎利容器 TC-472》についても触れられていました。こちらの容器も轆轤(ろくろ)を使って丸太をくり抜いて成形したところまでは同じですが、表面に金箔を貼って仕上げているそうです。

こちらは現在展示されているものなので、トーハク東洋館へ行けばすぐに見られます。わたしも講演会が終わってから見ましたが……金箔っぽさは確認できませんでした。たしか勝木言一郎研究員も、同様の感想を述べられていたかと思います。ただ、この容器とは別に、どこから剥がれたのか分からない金箔がビニールに入れられて保管されているのがあり、もしかするとこの容器から剥がれたものなのかもしれない……と言っていた気がします。

写真でみると、これって金箔かも……って感じですね。また今度、チェックしたいと思います。

また、こちらの《舎利容器 TC-472》については、同じ大谷探検隊ですが、第一次隊の渡辺哲信さんという方が、同じく「クチャ地方スバシのトゥーパ(仏搭)址で発見したもの」なのだそう。こちらは発掘場所は確かにスバシだったと確証を得られているようで、解説パネルにも「伝」の文字はありません。発掘時には、高僧と思われる火葬骨で満たされていた……という証言もあるそうです。

■結局は日本にやってきた2つの絵

次が講演会でピックアップされた大谷探検隊将来品の最後です。

由来説明が難しいのですが、こちらの重要文化財《樹下人物図 TA-149-1》は、アスターナのからホージャ古墳群で見つかったもの。解説パネルには「紙本着色」とあるとおり、紙製です。「厚手の紙を貼り合わせて屏風のように6点を立てまわし、墓室内を装飾したと考えられます」と講演会資料には記されています。

唐時代・開元 4年(715)
中国・アスターナ・カラホー ジャ古墓群
紙本着色
TA-149-1

実はこれ……大谷探検隊将来品ではありません。ただし第3次大谷探検隊の吉川小一郎さんが、たしか……剥がして持ち帰ろうとした品の一品……だったと勝木言一郎さんはおっしゃっていた気がします。これも記憶によればですが、2枚とも買おうとしたら1枚だけ「ダメ」と言われた……そのダメと言われた方が、大谷探検隊を経ずに、巡り巡ってトーハクに所蔵されている……と言われていた気がします。

じゃあどういうルートでトーハクへ来たのかと言えば、新疆省の布政使(ふせいし)という役職でウルムチに駐在していた、王樹枏(おうじゅせん)という方の旧蔵品だったとのこと。この名前の「枏」という漢字が「楠」を意味しているので、勝木言一郎さんは「おうじゅせん」ではなく「おうじゅなん」の方がより正確だろうと言っていましたが、現在のトーハクの解説パネルには「おうじゅせん」となっています。今後、解説パネルの表記も変更するかもしれない……ということでした。

この王樹枏(おうじゅせん)という人が多くの著作があり、なかなかの有名人だったようです。国立国会図書館にも多くの著作が収蔵されていて、中国語サイトにも説明があったので、気力が続けば後述したいと思います。

でまぁ吉川小一郎さんが発見した《樹下人物図》は、王樹枏(おうじゅせん)さんから誰かを経て(失念)、大阪の古美術商・山中商会からトーハクなのか帝室博物館が購入したそうです。かなり高価だったようで、勝木言一郎さんが金額をおっしゃっていたと思いますが、メモしなかったので忘れてしまいました。

この《樹下人物図》は、そんなに美術的に「すごいなぁ」という感じもしませんが、唐代の絵なのに、こんなに色鮮やかなに残っているっていう点では、驚きでもあります。そして、もっと驚きなのは、上述したとおりこの絵は屏風のように6つの絵を貼り合わせていたものの1点なんですね。じゃあほかの5点はどこにあるのか? と言えば、もう1点の《樹下美人図》についてはMOA美術館に収蔵されています。《樹下美人図》は、上述した大谷探検隊の吉川小一郎が持ち帰ることを許された方の一枚です。

そしてトーハクには、この《樹下美人図》を昭和の初期に、川面義雄が模写したものが収蔵されています。

《樹下美人図(模写)》
A-11139
※2024年12月19日現在、展示されていません

たしか前回noteにも記しましたが、《菩薩立像》や《樹下美人図》、《舎利容器》などを日本に持ち帰った大谷探検隊の吉川小一郎さんは、晩年に粕淵宏昭さんという方に発掘当時の話をしているそうです。で、『月刊シルクロード』だったか『大谷探検隊秘話 隊員吉川小一郎さんに聞く』だったかに、そのインタビューの様子が記されていると言います。

粕淵さんが「こんな大きなものを持って帰ってくるのは大変だったでしょう?」と吉川小一郎さんに聞くと、吉川さんは「いや、紙なので丸めて持って帰ってきたので、そうでもないですよ」といったような返答だったそうです。粕淵さんは、この絵を壁画かなんかだと勘違いしていた節があるんですね。それで「はぁ紙なんですねぇ」と応える……みたいな内容が、先述した本には記されているそうです。読んでみたいですね。

ということで、吉川小一郎さんが日本へ持ち帰ろうとした2つの絵が、別の博物館美術館ではありますが、結局は日本にやってきた……ということなんですね。

基本、講演会に関連する話は以上で終わりです。以降は、講演会では触れられなかったけれど、現在トーハク東洋館に樹下人物図の隣に展示されていたものなどを載せておきます。

■現在展示されている大谷探検隊将来品もう1点

美術的には、こちらの《持傘蓋菩薩立像 TC-552》も美しいなと思わせられます。見た時には、美人図だろうと思って見ていましたが、菩薩立像なんですね。日本で言えば平安時代の頃に描かれたものです。こちらは土壁彩色とあるので、壁から引っ剥がしてきたものですね。このきれいに剥がす技術もすごい気がしますが……。

《持傘蓋菩薩立像》
中国・ベゼクリク石窟|高昌ウイグル期・10~11世紀 土壁彩色 大谷探検隊将来品

9世紀以降 トルファンのウイグル族はベゼクリク石窟を造営し、そこに誓願図を多く描きました。釈迦が前世、過去仏のもとで、成仏するという誓願を発して修行に励み、将来「ほとけ」になるという予言(授記)を与えられるという内容です。この絵はその場面の一部です。鎧に身をまとい、傘をさす姿に表わされています。

解説パネル

■《樹木人物図》を旧蔵していた王樹枏さんについて

先ほど《樹木人物図》を旧蔵していた方ということで、名前がチラッと出てきた王樹枏(おうじゅなん)さんですが、Wikipediaでは中国語と英語のページが存在します。どんな人なんだろう? と読んでみました。

1852年1月15日ということで清朝末期に、直隷新城県(現在の河北省高碑店市)で生まれたそうです。「光緒12年(1886年)の丙戌科進士であり、推薦を受けて経済特科に合格した」とあり、その後も地方の長官を歴任していたようなので、エリート役人といったところだったのでしょう。その後、光緒32年(1906年)に甘粛新疆の布政使に任命されています。何年間かは新疆にいたのでしょうが、その間に多くの知見を吸収し、新疆に居た時なのかそのあとなのか分かりませんが『新疆国界図志』『新疆兵事志』『新疆道路図志』『新疆土壌表』『新疆金石志』『新疆職官志』『新疆沿革図志』などを著しています。また中華民国成立後の民国3年(1914年)には、新設された「清史館」の総纂(責任者?)に任命され、清の歴史書である『清史稿』の咸豊・同治時代の大臣伝を執筆しました。

その後、参政院参政、約法会議議員を務め、上大夫に加え少卿の称号を授与され、1936年2月7日、中華民国の首都であった北平で逝去しています。

改めて、かなりの高級官僚だったようですね。甘粛新疆の布政使に任命されたのが、王樹枏(おうじゅなん)さんが54歳の頃。そして「布政使」っていうのが何なのかを調べてみると……地方行政のトップである「総督」の直下にいる「巡撫」という役職を、「按察使」とともに補佐する役職だったようです。地方行政のNo.3かNo.4といった感じ。資料には「布政使は、一省の財務、警務、税務など一般行政を掌り、按察使は裁判事務を掌る」としています。(満洲国監察院 編『監察制度考察』,監察院,康徳2. 国立国会図書館デジタルコレクション)

■王樹枏と大谷探検隊

さらに大谷探検隊の各氏の日記が掲載されている『新西域記』には、特に第2次の野村栄三郎さんと第3次の吉川小一郎さんが、王樹枏と仲良しだったっぽいなぁという記述が散見されました。

以上が野村栄三郎さんの日誌です。王樹枏さんと家族ぐるみの付き合いだったことが伺えます。おそらく会ったけれど日誌に書いていない日もあったのではないかなぁ。それくらい付き合いが深そうです。

十一月一日晴 烏魯木齋(ウルムチ)滞在中
余等は布政司王方伯氏の厚意に依り、布政司衛門の一室を貸与せられ之に移る。或は人を派して運搬を助け或は室を洒掃して壁紙を新にするなど、其の懇情するに辞無し。
画食後、余等は林出賢二郎氏同道にて巡撫聯魁氏を衛門に訪ふ。年歯五十二三歳、独眼の人。三十分にして辞し……(中略)……次で接按使榮霈(えいはい)氏を訪ふ。……(中略)……五時帰寓すれば王布政使答訪せられ、四里坤の漢唐の碑の石摺を贈らる。余歯痛、九時に寝ぬ。

上原芳太郎編『新西域記 下巻』(有光社)189コマ

十一月六日晴
午後四時王布政使の宴に赴く、伊梨將軍某氏、杜按察使子息、林出氏と余等は支那料理の卓を囲む。七時散會、又林出氏寓にて修養談を爲す。
十一月七日晴
終日土魯番附近の豫査を爲す。栄按察使より明後日招宴の案内あり。夜林出氏寓に遊ぶ。
十一月八日 晴 清暦十月十五日
午前買物に赴き、正午衛門にて、王氏、林出氏、余等二人撮影す。晩余の室に別宴を催うす、余は明後日独此の地を離るる爲なり。林出氏、王氏の二子は兄を王勇敷、弟を王禹敷と名く。地理教師曹子傑氏皆な來る。■すき焼を囲み、主客痛飲高歌十一時に及ぶ。左の詩を贈らる。
 王勇敷
 君去馬如飛。行行安所之。他年重相遇。瀛島以爲期
 曹子傑
 十萬軍人血。胡兒牧馬■。神仙徐福宅。沙礫李陵臺。北虜憂方大。中原事更哀。■君一杯酒。唇齒念蓬萊。

上原芳太郎編『新西域記 下巻』(有光社)190コマ

十一月九日 晴
……(冒頭略)……
午後四時栄按察使の宴に赴く。林出氏の外、知府、候補知府、王勇敷、栄縣
臺父子。■■三十六種、七時三十分散會。
……(中略)……
迪化府(てきかふ=ウルムチ)は天川の北路にありて、……(中略)……土魯番に至り、天山南路に通ずる要衝にして、新疆省の首府なり。總督、布政
使
等文武の高官悉く此地に居り、天山南北両道の羊毛獣皮等は殆ど此の地に集中す。……(中略)……此の広大なる城壁を以て包まれたる迪化府は、
商店酒樓軒を連ね、人馬練るが如き西域第一の大都市なり。當地見聞一二左の如し。……(このあと通貨・為替相場についての文章が続く)……
本年より新疆紙幣を出さんとし、目下布政使に於て印刷中と云ふ。……(後略)……

上原芳太郎編『新西域記 下巻』(有光社)190-191コマ

十一月十日 高温二度 低温 零下七度
烏魯木齋(ウルムチ)發 チチソウザ着 坂路
橘氏は少時此の地に留まり、余は本日を以て土魯番に向ふ。午前王布政使父子林出氏等と新疆一般の事、乃至天山の石炭、石油、金銭等の談を聞き、画食を倶にし、諸氏に送られて衛門前より馬車に乗り兵六名を伴ひ、午後一時出發して南門南関、露國居留地を過ぎ南郊に出れば、茫々たる廣野より路は山中に入りて氷雪に滑かなり。六時三十分寒村のチチソウザに宿す。不潔甚し。行程四十清里、所要五時三十分間。

上原芳太郎編『新西域記 下巻』(有光社)192コマ

十二月三十一日 晴 雅爾湖発 ホットコ着
余は京都より送金を受けんが爲め烏城に赴く。僕の張を伴ひ轎車に乗じ正午出發す。橘氏は■と共に送りて萬歳を唱ふ。西行、夜十時にホットコに着す、行程九十清里。
……(中略:正月一日から三日までの旅程が短く記載)……

一月四日 睛 烏魯木齊着
午後三時三十分烏城の南関に到り、偶ゝ(たまたま)林出氏の武備學堂の歸途に邂逅(かいこう)す。藩臺衙門に宿し 、夜は王布政使、林出氏と快談、王氏去りて信仰談に移る。

上原芳太郎編『新西域記 下巻』(有光社)203コマ

一月十五日
猊下、御裏方の萬歳を唱へ、父母の健康を祝す。林出氏及び王氏兄弟と語る。
一月十六日 晴 晩雪 午前八時零下四十八度
北京へ催電を発す。夜、英雄論に耽る。
一月十七日 晴
王布政使等と語る。
……(中略)……
一月二十二日 晴 清宣統元年一月一日
午前四時より回禮客あり。午後王布政使来り余を占ふ。日く、運命吉利、旅途稍ゝ不安と。
當城の兵備は、騎兵二百騎、工兵一小隊、砲兵一大隊、砲十八門、歩兵三營
[ニ千]と。

上原芳太郎編『新西域記 下巻』(有光社)204コマ

一月二十九日 晴
橘氏宛為替受取の通電を発し、京都へ「九百七十一受取、葡萄手ニ入ラス。明日出発、本日報告書發送」と打電す。夜、王氏兄弟、余の爲めに別宴を張る。
布政使王氏は余の出発に當り左の書を贈り來る[越山とは余の號なり]
勝金臺畔樹連柯。吐峪溝前水不波。夷國山川幾陵谷。唐年經碣半刓磨。壞墙穿穴巢蝙蝠。古佛埋沙載薛蘿。手剝千秋苔蘚跡。懸厓立馬猶摩挲
 越山先生將踰天山而西前一日出紙索書贈作時乙酉一月九日也
晋卿王樹枏呈稿[印]
(越山先生が天山山脈を越えて西へ向かうにあたり、出発前日、紙を出して書を書かせた。この詩は乙酉(干支)の年の1月9日に書かれたもので、晋卿の王樹枏がその稿を呈した。[印])

一月三十日 烏城發 チャイホウ着
現銀を携へ、喀喇沙爾(カラシャール)に向ふ。直行轎車無く、土魯番迄馬三頭立を八両に約す。王布政使一家、林出氏等に送られ午後一時出発。

上原芳太郎編『新西域記 下巻』(有光社)205コマ

以下は吉川小一郎さんの日誌。

八月十八日 日 快晴声音 前三時五十分 六十九度
前三時五十分起床、直ちに出発す。四時五分東天紅を漲す。然かも六日の月は路を照せり。樹木耕地漸く多く、灌漑の小河幾條南北に貫流す。午前六時半、迪化府南関の東干の旅舎に投ず。
前十時巡撫を衛門に訪ふ。橘氏の荷物は四五日内に喀什(カシュガル)より到着せんと語る。各地の擾乱を語るを避くるも、科普特(コプト=エジプトにおけるキリスト教徒)方面はほ不安ならずと告ぐ。歸途寫眞舗に乾板等を求む。中板五打あり。一打三両、ブロマイド紙一打十二両、日本の値に五倍なり。布政使より天津新聞を借覧す。

上原芳太郎編『新西域記 下巻』(有光社)407コマ

■寄贈者・「晩翠軒」の井上恒一さんについて

先日、国立国会図書館デジタルコレクションをブラウジングしていたら、菩薩立像の寄贈者で「晩翠軒」のオーナーだった、井上恒一さんについて、その人柄がしのばれる文章がありました。その時にはnoteしませんでしたが、ここにメモとして残しておきます。

虎の門の大きな支那料理店「晩翠軒」を知らない者は少いであろう。創業以来すでに五十年近くも栄えているのではあるまいか。
晩2軒の支那料理を喰べに行つた事のある人は多分、帰り際に、玄関の式台に、色白の、目方二十貫以上もあろうと思われる、福々しい顔をした、五十がらみの男が、女中達に混って、平蜘蛛の如く平身低頭するのを、目撃するであろう。これが晩翠軒社長の井上恒一君其の人である。勿論二代目の主人公であるが、母堂が却々の賢婦人である。先代亡き後は、自ら来配を振り、幾人かの支那人のコックを縦横に駆使して、晩翠軒の名を不動ならしめた。日華事変中四散した支那人コック達が、終戦後、いずこからともなく、旧主の許に舞い戻って来たという美談が伝えられている。

石川清 著『買いかぶられの記』,機械社,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2966376

井上徳隣さん……井上恒一さんとの思い出を、書道家の西川寧さんがかなり詳らかに記しています。追悼文なのかもしれません。
『書品』(176),東洋書道協会,1966-12. 国立国会図書館デジタルコレクション (30コマ) 

そして西川寧さんという書道家も、これまで大谷探検隊と縁の深い方……。そうしたつながりを追っていくと切りがないのでこのへんで今回のnoteを締めたいと思います。

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かわかわ
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