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東京国立博物館の月例講演会が面白かったので、残っている記憶を頼りにnoteしておきます…大谷探検隊が持ち帰った《菩薩立像》

どの博物館でも講演会を実施していますが、東京国立博物館(トーハク)でも、主に同館の研究員による月例講演があります。たいていは申し込むのを忘れたり応募者多数の抽選に漏れたりするため、わたしが行けるのは2〜3カ月に1度といった程度です。

今月は……2024年12月……その講演会に行ってきました。今回のテーマは、特にものすごく興味があったわけではなかったのですが、「大谷探検隊」について……『大谷探検隊が収集した西域の美術』でした。話を聞いていてワクワクしたので、ここに覚えている限りをnoteしておきます。

でも講演会の内容ですが……たいていの講演会って、なぜ録音禁止なんですかね? 新コロ禍の際にはオンラインで行なっていたのに……YouTubeで聞けた時の方が良かったです。今は元に戻って、メモは取っていいとはいえ……。ということで、はなはだ不正確ですが、メモをもとにしてできるだけ資料にあたり、どんな話がなされたのかをnoteしていきます。

今回の講演会では、現在トーハクの東洋館に展示されている《菩薩立像 TC-818》と、現在1つだけ展示されている《舎利容器 TC-557とTC-472》、そして《樹下人物図 TA-149-1》の由来を、研究員の勝木言一郎さんが語ってくれました。


■大谷探検隊とは?

《菩薩立像 TC-818》と、《舎利容器 TC-557とTC-472》、そして《樹下人物図 TA-149-1》は、いずれも大谷光瑞(こうずい)さんが組織した大谷探検隊が持ち帰ってきたものです……もしかすると1点だけ違うかもしれませんが、とにかく同探検隊に縁の深いものであることは間違いありません。

大谷光瑞さんは、浄土真宗本願寺派の法主(ほっす=トップ)でした。明治維新直後の1876年(明治9年)12月27日に生まれ、太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に亡くなりました。おそらく仏教徒ではない大半の人は知らないと思いますが(わたしは知りませんでした)、浄土真宗本願寺派は、国内で最も信徒が多い宗教派閥なのだそうです。新選組が一時期屯所を置いた、京都の西本願寺が宗団の本拠地であり、東京においては、異様な雰囲気の本堂の築地本願寺が中心地(直轄寺)です。

築地本願寺
画像はWikipediaより

当時の大谷家は……今もかもしれませんが……大富豪であり、リアルな貴族でした(伯爵)。下の写真は大谷光瑞さんが、第一次の探検から帰国したあとの1908年(明治38年)に建てた別邸……二楽荘です。

二楽荘
岡本定吉 編『住宅建築写真集成』第3輯,建築工芸協会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11986980
二楽荘
岡本定吉 編『住宅建築写真集成』第3輯,建築工芸協会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11986980

ちなみに二楽荘と築地本願寺を設計したのは、伊東忠太さん。建築研究に中国を訪れた際に、第一次大谷探検隊の別働隊の3人と遭遇。意気投合して一夜を語り明かした(明かしてはいないのかな?)そうです。翌朝には記念撮影をして別れ、その後、伊東忠太さんが大谷光瑞さんを尋ねて、二楽荘と築地本願寺の設計へとつながったそうです。

右から2人目が伊東忠太さん
伊東忠太建築文献編纂会 編纂『伊東忠太建築文献』第5巻,竜吟社,昭11至12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1214546

話がどんどん本題から離れていっていまいそうですが、大谷探検隊は、大谷光瑞自身が指揮した1900年からの第一次をはじめ、第3次まで実施されました。

●第1次(1902年 - 1904年):大谷光瑞・本多恵隆・井上弘円・渡辺哲信・堀賢雄
●第2次(1908年 - 1909年):橘瑞超・野村栄三郎
●第3次(1910年 - 1914年):橘瑞超・吉川小一郎

トーハクの展示パネルより

この大谷探検隊の踏査が実施された頃の日本史を見ると……明治27(1894)日清戦争勃発、明治35(1902)日英同盟締結、明治37(1904)日露戦争勃発……ということで、日本がどんどん調子ぶっこいていった時代です。大谷光瑞さんも、かなぁり調子ノリノリだった……と言っても、少なくとも浄土真宗本願寺派の方々は、否定しないのではないかと思います。

1914年(大正3年)、大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため法主を辞任し、大連に隠退した。二楽荘と探検収集品もこの時に手放している。現在、これらのコレクションは散逸し、二楽荘も1932年(昭和7年)に火災で焼失した。

出典:Wikipedia

■隊員・吉川小一郎さんが持ち帰った可能性が極めて高い《菩薩立像》

そろそろ本題に入りましょう。大谷探検隊の第2次隊…橘瑞超と野村栄三郎がシルクロードを歩いたのは1908年から1909年のことです。この2人のうち橘瑞超さんが、なんと消息を絶ってしまったんです。その橘瑞超さんを探すために編成されたのが第3次隊です。大谷光瑞は側近の1人、吉川小一郎さんに「瑞超はどうしただろうか? 」と尋ねました。すると吉川小一郎さんは「なにぶんあちらは連絡手段が整っていないため、何度も連絡していても、こちらに届いていないといったことも考えられます……きっと生きているでしょう」と応えます。すると大谷光瑞さんも「わたしもそう思う。小一郎よ、ちょっと見てきてくれんか?」と言ったそうです。あまりに自然と言われたものだからびっくりした吉川小一郎さんの表情を見て「いやか?」と聞く大谷光瑞さん……吉川小一郎さんは「尊師から言われれば否とは言いません。行って参ります」と言って第3次隊が出発したとのことです。(参照:杉森久英 著『大谷光瑞』,中央公論社,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション 110コマあたり)

こうしてあまり考えずに大谷探検隊について記しましたが、話を《菩薩立像》に戻さないといけないとも思っています。なぜなら寄贈された《菩薩立像》が、大谷探検隊の将来品で、たしかに敦煌などの中国西域で発掘されたものなのかを特定するのが、今回の講演の趣旨だからです。

《菩薩立像 TC-818》

《菩薩立像 TC-818》が、トーハクに寄贈されたのは2022年のこと。寄贈前に研究員の勝木言一郎さんは、この像を精査鑑定するために(だったかな?)、三井美術館の地下で、寄贈者のご遺族とともに《菩薩立像 TC-818》を初めてみました。当時は「敦煌で発掘された菩薩立像……らしい」としか聞かされていません。

つまり勝木研究員が最初に観た時には、「身元不明の菩薩立像」だったわけです。

勝木さんによれば、敦煌の塑像の全身像は、とても少ないそうです。「こんな塑像の全身像が日本にあったのか」と驚いたとも言っていた気がします。そして、塑像が作られたのは中国でも西方域だけなのだと言っていた気がします。だからもし中国で発掘されたとしたら、甘粛省あるいは新疆あたりのものだという可能性が高いと思ったと言います。

そして像を納めた箱には、ラベルが一枚貼られていました。書かれていたのは……

「検」

第壱◯参五號(朱文)
塑像彩色
観音立像 二尺六寸
発掘地 新疆敦煌 二楽荘▢(司カアルイハ同力)續
第四七五号二富ルモノ

……という文字列でした。お話を聞いていると、なんとなく『名探偵・勝木研究員』……といった雰囲気です。

このラベルを見て不審だったのは「新疆敦煌」と記されていること。「敦煌(とんこう)」は「新疆(しんきょう)」ではなく「甘粛省」にあるからです。どうやらあまり地理に詳しい人が書いたものではないようだということ。ただ、「二楽荘」というのは、前述したとおり大谷光瑞が建てた別邸というか文化施設のようなものです。もしこの像が本当に二楽荘にあったものなら、大谷探検隊が発掘して日本へ将来した可能性が高まります。つまりは不明だった菩薩塑像の身元が解明できる可能性が高まるということです。でも大谷探検隊であれば、敦煌を新疆と書くようなことはないはずです。勝木研究員は、そこが引っかかり……本当に二楽荘にあったのか? と思ったようです。

ちなみに寄贈者は「井上恒一(つねいち)」さんです。この方は、虎ノ門にあった中華料理屋「晩翠軒(ばんすいけん)」のオーナーでした。夏目漱石などにも愛された名店として、当時はものすごく有名だったようです。中華料理屋だけに中国の古物をコレクションしていた……と書いてしまいそうですが、この「晩翠軒」は、もともと書道の文房具、書籍、法帖、それに陶器を扱う会社です。書籍や法帖を扱っていたというのも、単に売っていただけでなく、編集出版もしていました。(神田神保町の三省堂の小さいバージョンのような会社でしょうか)

言ってみれば、単なる趣味人ではなく生業としていたプロの人からの寄贈品です。その井上恒一さんが「敦煌から出土した塑像の菩薩立像」と言って大切にしていたものなんですね。

それでも疑ってかかるのが、おそらくトーハク研究員のお仕事です。トーハクでは、ご遺族から同像を預かりCTスキャンで観てみました。像の中心には垂直に木……木心があり、木心とクロスするように肩を支える木……また腕の芯となる木が見えてきました。それらの木の周りに土をペタペタと貼っていき、菩薩をかたどっていることが分かります。

ただし、耳のあたりの髪や肩の一部、右(だったかな?)の手と指の部分は、あとから修復されたものだと分かったそう。特に指を支えるためにワイヤー? 針金? が使われているということでした。それ以外についてはオリジナルの塑像であることが判明しました。

勝木さんは文献も調べていきました。先述のとおり「二楽荘」という大谷探検隊と関係がある可能性を探っていきます。講演内容の細かい話は忘れましたが、わたしのメモには「1979年『月刊シルクロード』」とあるほか、「吉川小一郎 1937年 新西域記『支那紀行』 千仏洞の痛みの少ない仏像を2体買った」とあります。これらの資料を読んでみたいと思い、国立国会図書館デジタルコレクションを検索すると、『新西域記』の方は見つかりました。吉川小一郎さんの『支那紀行』は、『新西域記』の下巻にありました。チラッと読んでみようと思ったら沼ってしまいましたが、それでも全てを読むのは大変なので、吉川小一郎さんが仏像2体を買ったという箇所を探していきました。

吉川小一郎さんは明治44年5月25日に、二楽荘を出発して中国へ向かいます。

上原芳太郎 編『新西域記』下巻,有光社,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3436134

西方へ向かいながら、様々な場所で土地の有力者と記念撮影をしています。上の写真では、後列右側の男性が吉川小一郎さん。そのほか民俗学的な調査も含んでいたようで、地元の家族を撮った写真も多く残っています。

講演会で見せてもらった写真もありました。安西城という町の有力者2人との記念撮影ですね。こうした有力者と仲良くなることで、現地での便宜を図ってもらった……と勝木さんが説明されていた気がしますが、そうなんでしょうね。

日記を読んでいくと時間がかかるので、写真だけを追っていきます。すると千仏洞の壁画や塑像などの写真が増えてきました。あとで文章も読んでみようと思います。

上原芳太郎 編『新西域記』下巻,有光社,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション

敦煌の千仏洞の外側の写真も、何枚も撮っています。今とは異なり、色んなものがむき出しのまま残っていたんでしょうね。

そしてついに、吉川小一郎さんが《菩薩立像 TC-818》と“思われる”観音像を購入して持ち出したという文章を発見! と言っても、講演の際に勝木研究員が日付まで教えてくれたので、簡単に見つけられました。「十月二十三日 月 快晴 高七十度 低五十四度 前九時、五十七度、朝来洞窟を精査し、諸像中最も精巧にして、損傷少きもの二軀を選び、道士に交渉して、是れを購ひ、行李に収む。」とあります。翌日には敦煌から来た迎えの馬車に乗って、千仏洞を後にしています。

ちなみに消息を絶った同僚の橘瑞超の捜索については、一度後回しにして、吉川小一郎さんは探検を続けます。

『新西域記』には、敦煌で撮られた写真が多く掲載されています。吉川小一郎さんは、《菩薩立像 TC-818》の写真についても取り外す前に撮影したと証言しているため(『月刊シルクロード』だったかな?)、勝木研究員は、その写真を探したそうですが、まだ見つかっていないとのこと。同書に掲載された写真以外にも、龍谷大学に所蔵されている写真があるようなので、いつか調査をして見つけられるかもしれません……とのことでした。

翌年でしょうか、3月12日前後の記録には吉川小一郎さんたちのキャラバンの様子をとらえた写真がありました。内容を読んでいないから分かりませんが、この一団のすべてが大谷探検隊だったとしたら……大谷家が財政難になるのも仕方ないですね。

そして、この写真……トーハク東洋館の奥にある狭い展示室の壁に貼られている写真です。大谷探検隊の将来品を中心に展示している部屋で、壁には大谷探検隊の主な旅のルートなどが大きく貼られています。その説明の中にある一枚が、この写真なんです。そちらトーハクの解説によれば、大正3年(1914)に撮影されたもので、「中国の内モンゴル自治区の砂漠を行くラクダのキャラバン。発掘も、大量の発掘品を運ぶのも大変でした。」と記されています。

ただ2枚の写真をよく見比べてみると、トーハクの写真には引っかき傷があったり、小さな黒点がポツポツとついています。何枚かプリントされたのか、トーハクが借りた時に傷が増えていたのか……という感じですね。

トーハクの展示室にかかっている写真

ということで吉川小一郎さん率いる大谷探検隊の話に夢中になって、本題をすっかり忘れていました。本題は《菩薩立像 TC-818》についてですね。でもまぁ勝木研究員の話のとおり、この像が、第3次の大谷探検隊……吉川小一郎さんたちが持ち帰ってきたものという可能性が極めて高いことが分かりました。まぁあからさまに盗掘して持って帰ってきたわけではないようなので、ひとまずホッとしました。

講演では、ほかの資料も引用して、《菩薩立像》が吉川小一郎さんが買ってきたものという可能性が高いと結論づけました。そのため、銅像の展示解説パネルにも下記のようになっています。

大谷探検隊の隊員であった吉川小一郎が、敦煌莫高窟でこの像を入手しました。菩薩の裙の文様やは今でも美しいままに残っています。CTスキャンによって、像の木心は当初のままで、その周りに土を貼り付けていったことがわかりました。

解説パネルより

《菩薩立像》の日本に持ち帰られた後のことは別noteで詳細を記したいと思っていますが、かいつまんで記しておくと、要は吉川小一郎さんが帰国して大谷光瑞猊下に復命した時には、大谷家は財政困難に陥るとともに本願寺派もごたごたとしていて、大谷光瑞さんは西本願寺の住職などから外され、二楽荘を手放さなければならなくなりました。この時におそらく探検隊が持ち帰ったものを含む、多くの大谷光瑞コレクションが他の人の手に渡ったのでしょう。そして持ち帰ったばかりの《菩薩立像》も流出……どうやら有名な古美術商「繭山龍泉堂」を経由して、上述した寄贈者、井上恒一さんの手に渡ったようです。

こうして結果だけをみると、大谷光瑞(大谷探検隊)……繭山龍泉堂(繭山順吉)……井上恒一さんと、いずれもトーハクの前進である帝国博物館と薄くない関係を持っている人たちばかりですね……。

ということで今回のnoteは以上です。次回は、できれば今回の続き……《舎利容器》についてnoteしていきたいのですが……週末になるかもしれません。

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かわかわ
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