美しいものを見よう
品の良い人を見かけると、突如自分の素行が恥ずかしくなり、自然と背筋を正すことがある。
「さみしい夜にはペンを持て」の著者、古賀史健さんのnoteを読んで、最近の自分を反省した。
記事は公衆トイレが汚かった話から始まる。
それを「こんな話、だれが聞きたいというのだ」と処理し、古賀さんは以下のように述べた。
そうすると、この世は結構な汚物が飛び交っていることになる。
芸能人同士の炎上、ごく狭いコミュニティのリンチ、誰かの誰かに対する空リプ。
そういった言葉を投げつけるのは「弱さ」だと、古賀さんは淡々と告げる。
「いつもきれいに使っていただきありがとうございます」とトイレに貼ってある、ぴかぴかのラミネートみたいに毅然とした文章だった。
こういう風に書ける人が、世に広く伝える価値のある、一流の物書きだと痛感した。
同時に、最近の私は心の平穏を乱される言葉や存在に、軒並み牙を向いていたように思う。
以前も「折れたシャーペンの芯が混ざったような文章を書いていた」と顧みたことがある。それでもいいと言ってくれた方もいた。
だが結局のところ、言葉がきつくなってしまうのは、弱者が自分を守るために他者を糾弾するほうが楽だからだ。
漫画「推しの子」に、こんなセリフがある。
被害者であることを盾にして、延々と怒りの空リプを投稿し「お名前出さない私優しい」とツイートしていた人がいた。
こういうのは尚更タチが悪い。
今は幸い、そんな心の貧しい人間のことを考えてる暇がなくなった。
私は、誰もが好きこのんで汚物を投げているとは思わない。
確かに手の施しようもない人間もいる。
だが、ブラックホールみたいなスマホの画面に電源を灯し、あまりにも処理しきれない汚物を見てしまうと、そこにばかりフォーカスして自分の心も淀んでしまうのだ。
だから攻撃したり、虚勢を張ったり、幸せなフリをする。
今日の朝、テレビのニュースもSNSも見ないで過ごした。
支度をして、家族を送り出して洗濯機を回して、公園までウォーキングに出た。
余計なことが何も浮かばなかった。
夏の終わりを感じさせるひんやりした風が火照りを和らげ、草刈り直後の青臭い匂いの後をついて歩き、木陰のベンチに座ってしばらく空の青さに見入っていた。
もっと美しいものを見よう。心を傾けよう。
そうすれば、たとえ弱くても攻撃なんかしようと思わなくなる。
出てくる言葉はもっと、強さと優しさを宿せるはずだ。
※ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。