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美しいものを見よう

品の良い人を見かけると、突如自分の素行が恥ずかしくなり、自然と背筋を正すことがある。

「さみしい夜にはペンを持て」の著者、古賀史健さんのnoteを読んで、最近の自分を反省した。

記事は公衆トイレが汚かった話から始まる。
それを「こんな話、だれが聞きたいというのだ」と処理し、古賀さんは以下のように述べた。

だれかを攻撃する汚い罵倒も、まさにそうだ。あれは「思っていること」を口にしているのではじつはなく、攻撃として「効き目のあることば」をただ、投げつけているのだ。泥を投げるよりは汚物を投げてやれ、といった感じで。

そうすると、この世は結構な汚物が飛び交っていることになる。
芸能人同士の炎上、ごく狭いコミュニティのリンチ、誰かの誰かに対する空リプ。

若いころはそうしたことばが持つ攻撃力を、自身の「鋭さ」なのだと勘違いしていた気がする。違うよ、鋭さでも強さでもなく、その武器に頼らざるを得ない弱さだよそれは。いまの自分なら、そう彼に言い聞かせるだろう。

そういった言葉を投げつけるのは「弱さ」だと、古賀さんは淡々と告げる。
「いつもきれいに使っていただきありがとうございます」とトイレに貼ってある、ぴかぴかのラミネートみたいに毅然とした文章だった。

こういう風に書ける人が、世に広く伝える価値のある、一流の物書きだと痛感した。

同時に、最近の私は心の平穏を乱される言葉や存在に、軒並み牙を向いていたように思う。

以前も「折れたシャーペンの芯が混ざったような文章を書いていた」と顧みたことがある。それでもいいと言ってくれた方もいた。

だが結局のところ、言葉がきつくなってしまうのは、弱者が自分を守るために他者を糾弾するほうが楽だからだ。

漫画「推しの子」に、こんなセリフがある。

傷つけられる側が自分を納得させる為に使う言葉を
人を傷つける免罪符に使うな……!!!

「推しの子」1巻より

被害者であることを盾にして、延々と怒りの空リプを投稿し「お名前出さない私優しい」とツイートしていた人がいた。
こういうのは尚更タチが悪い。
今は幸い、そんな心の貧しい人間のことを考えてる暇がなくなった。

私は、誰もが好きこのんで汚物を投げているとは思わない。

確かに手の施しようもない人間もいる。

だが、ブラックホールみたいなスマホの画面に電源を灯し、あまりにも処理しきれない汚物を見てしまうと、そこにばかりフォーカスして自分の心も淀んでしまうのだ。

だから攻撃したり、虚勢を張ったり、幸せなフリをする。

今日の朝、テレビのニュースもSNSも見ないで過ごした。
支度をして、家族を送り出して洗濯機を回して、公園までウォーキングに出た。

余計なことが何も浮かばなかった。
夏の終わりを感じさせるひんやりした風が火照りを和らげ、草刈り直後の青臭い匂いの後をついて歩き、木陰のベンチに座ってしばらく空の青さに見入っていた。

もっと美しいものを見よう。心を傾けよう。
そうすれば、たとえ弱くても攻撃なんかしようと思わなくなる。
出てくる言葉はもっと、強さと優しさを宿せるはずだ。


※ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。

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おおやまはじめ/手帳と暮らしのライター
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