スッタモンダヴォーズ 天の川にゆられて
「あ、面白い思考がやってきた!」
『何と?』
「スケベイダーは昔、女子の前で自転車走行中に調子んノってサドル上に立とうとするも体勢を崩し落下、キ〇タマを強打した事がある💥😂」
『な💦なぜ私の前世を知っている?』
「てへっ♡意識が拡がって、実在とつながりやすくなったからかもね!」
『ほお。ならば自動で起きていることを理解したか。オジ=サン、そろそろどうだ?』
〈よろしいんじゃないですか。本来、我々はどこまでも自由な光の存在です。カード集めは自動で決まっている。スケベイダー役を演じているのは本当のタオの助さんではないですから〉
「・・あー、そういうこと!お父さんもオジ=サンもみんなも思考にやってくるものを観て、演じてたってことね!・・・ちょっと待って。じゃぁ、もう笑うしかないじゃない!!🤣」
『フン。所詮消えればわかることだ。しかし、ここまで花子の理解が早いとは。まぁ、伝達が先にくるから裏方のおかげか』
〈スケベイダー卿のやら…優しさですよ。花子さんにイキナリすべては自動だ、すべては決まっていて完璧だ、なんて云っても気づけません。そういった意味では、スケベ一色の世界に染めていたというのは理の通り。中心を忘れることで、ガラクタも楽しめたのですし、自我あっての戦争体験です〉
「え、じゃあさ、じゃあさ、なんだかものすごく自由なんじゃないの?私たちって??すべてはひとつ、心はひとつって、ハートからすべての”私”が演じてるのを微笑みながら観てるってことでしょ?」
『そうだ。理解を深めたな。本来の人間はハートに従いハートで生きる。それなのに花子のエゴちゃんはすぐいちゃもんつける。だから旦那の三郎も離れていくのだ』
「ハ!?・・な、なんでそれを知ってるのよ?」
『はははっ🤣先程のお返しだ』
〈あははっ。でも花子さんは自分は思考ではなかったことに気づいた。それも実は決まっているんです。ただ、その最も人間らしい人間を選ぶのも自由。人間のまま現実を楽しむのも自由。そもそも、分離してると勘違いしているようなものだからどちらでも愛なのです。だって、実在は全なる愛なのですから💚〉
「うわ・・じゃあ本当の自分って、めっちゃ自由じゃない✨✨✨」
『であるから本当の自由だと何回も・・まったく。まぁいい』
「じゃあ、お父さんはわざわざ次元を堕として、モンモンカードを?」
『ははは。次元か!そのような境界など何処にもない。今の花子から観ればあるように見えるだけだ。言葉や文字というものは、誰かが理解を深めるため、楽しむためにあらゆる表現をしているにすぎない。愛ゆえに起きていることもあるだろうし、それを掴んだまま楽しんでいる者もいるだろう。本当に傷つく者は存在せず、またあらゆることを誰もが楽しんでいるのだからどこにも問題はない。惑星ムチュウは完全完璧だ!』
〈いずれ、言葉や文字は消えますからね。楽しむ、苦しむ、それがどのようなことであれ今ここだけ。今のうちです💛〉
現実世界のもの(思考、身体、外の事象など)と同一化して、楽しむのも自由。真実の世界(実在のヴォーズ)と同一化するも自由。
表現も自由ですが、現実(幻想)、霊界(あの世)、真実(神界)、或いは次元など言葉で現すと、まるで分離しているかのように見えて実際はどこにも境界はございません。
また、現実世界のもの(思考、身体、外の事象など)と同一化していることが、苦しみの原因ともいえますので、その今を楽しめていない御方は、不要な観念の手放しをするとよいでしょう。
本当の私たちはどこへでも行き来自由なのです。と、こう書いても今現在は現実にしか自分はいないように感じる御方もおられるかもしれませんが、事実では、すでにあらゆる世界と繋がっております。星空にあるように見えている宇宙もそう見えているだけで、実際の姿は実在です。目の前にある人も、そのように見えているだけで存在しておりません。が、実在としては光の存在として存在しております。
真理から観れば、どこを見ても光だらけです。
まるでそこにいるかのように観えている。ぬくもりを感じている。
まさに奇跡の愛といえましょう💛
自分が自分を食べている、なんてバカみたいな感覚もトキにあるかもしれません🤣病気ではありませんよ。実はそっちが真実です✨
実在の神、神の子を認識すると、いわゆる同じ世界に在りながら、別次元を生きている、とうことになりましょう。ところが、すべてはつながっておりますから、『自分という私はいないけど、すべての私がいる、或いはすべてはひとつのワタシ』という視点になります。
ただ、知識として知るだけでは、ソレ自体にはなれませんので、あくまで、そのように演じている役割となります。すべてが消滅しなければただそこに在るすべてのソレは顕れません。ソレがソレに目覚めることが真の目覚めといわれるそれです。自身もその他のすべても愛そのもの、光そのものだと完全に認識する自己認識の変化です。
目覚めたあと、自我が完全に消えたまま、或いは僅かばかり自我を残して生活しているのが全イチです。前者は幻想世界のもの(思考、身体、外の事象など)とは一切、同一化していない状態です。”私がやっているわけではない”と完全に認識しております。自分とは何かを認識している。つまり自我は消え身体の中心と霊界の中心とが完全に繋がっている。なので、真に健康体であり、幻想世界の影響を受けません。
聖賢たちの一部の御方は、たとえば煙草を吸っているのは自分ではない、と完全に理解していたというわけです。目覚めても役割をこなすことには変わりないということも。また、中心に繋がるものは”すべてが私”であると認識しておりますので、自然と世界に対して愛が芽生えるという感じでしょうか。そもそも全ては最初から愛だけなのですが。禅問答みたい🤣
このあたり勘違いして、全ては生き物であり命なのだから、あれはイケナイ、これはイケナイなどと縛りを作ってしまうと、まったく自由ではないんですよね。まぁ、それも決まっているのですが。
幸い、この日本においては精神的自由権の前フリで第十九条が定義されてますので、精神的な束縛はありません。
いつも安らぎの中、心地良く生活して在ればよいのです🎵
悟らない。
悟る。
悟ったまま全イチ。
その状態であるもよし、
現実を楽しむもよし。
どちらでも愛。
どこまでも自由。
そのままで愛。
あなたは今、いつまでも愛の存在であり、いつまでも自由な存在です💚
さて、一方で現実世界。ここには真理とは違い、時間の流れがあります(あるように思ってるだけですが)思考にやってきているものは、それぞれの”私”の過去からの記憶であったり、魂レベルでいう前世の理解であったり、先人たちの想いであったり、まぁ、いわゆる未知といわれる部分です。
で、抜粋しますと、例えば「もう戦争は起こしてはならない」とか「人を傷つけてはならない」とか「病気はもうたくさんだ」などそれはもう表現不可能なほどの意識があなたの思考にやってきます。それこそがプログラムされている、完全完璧、とする所以です。あなたが考えていたことがすぐに現象化することもありましょう。また、お互いの”私”は、同じ考え方は絶対にできません。不可能です。不可能だからこそ面白いともいえましょう。
未知。
または、自我の考え。
または、中心理解。
大まかにはそれらが、「おい、もう宇宙の理から外れすぎちゃったから、そろそろ中心を思い出そうぜー、縁になろう、輪になろう、最初からみんな円の中にいるんだから」のような感じで、自覚・無自覚に関係なく、少しずつ絶対的な平和な世界に近づいている、といった感じです。
このあたりは昨今のマインドフルネスブームやヨガ、隠れていたものが顕れてきている社会面での情報などを見ても、少しずつではありますが、より良き未来に進んでいることに気づかれましょう。
意識が先で、現象は後。
宇宙であれ人間であっても理です📜
これはもう私たち自体実在そのものですから、理には逆らえない。例えるなら、大河を流れる水の如く力を抜いて流れるまま、といった感じでしょう。考えたって仕方ないゆえ、全てを止めると大河の底が見える、なんて💞
ま。本当のあなたはその思考ではなく、
ハートにいますのでご安心を🎵🎵🎵
中心と結ばれてからはじまる愛もありますから👍✨