沈黙とは孤独ではなく、そこに感じられるものー『沈黙-サイレンス-』(2016)
高校生のころ、難しそうだけど、とりあえず読んで何となく分かった気にした本があります。
遠藤周作の『沈黙』です。
今思い返せば、自分の理解は追いついていなくて、「こういう本を読んだ」という事実にしかなっていませんでした。
この夏、私は長崎という地に思いを馳せながら、改めて『沈黙』という作品、そしてマーティン・スコセッシ監督が28年という長い年月をかけて完成させた、映画『沈黙-サイレンス-(原題:Silence)』と向き合ってみることにしてみました。
(※映画はNetflixで視聴しました。2からは物語の細部にも触れるので、それで良ければ読んでください。)
1. キリスト教の伝来、伝播、そして弾圧へ
『沈黙』と向き合う前に、まずは日本におけるキリスト教の歴史を少しだけ振り返ってみます。(受験以来、日本史から離れているで復習!)
有名な「1549(以後良く)広まるキリスト教」という語呂合わせ。
イエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが戦国時代の最中にあった日本にキリスト教を伝えた年です。
それから南蛮貿易による利益を求めた大名の許しを得て、西日本(主に九州)を中心に布教活動を行いました。キリスト教に入信し、キリシタン大名となる者も現れました。
1551年にザビエルが日本を去った後も、数々の宣教師たちが日本を訪れては布教活動を行い、最も多い年にはキリシタン人口は30~40万人に及んだと言われています。
雲行きが怪しくなったのは1587年に豊臣秀吉が出した「バテレン追放令」。
豊臣秀吉は、キリシタン大名であった大村純忠が長崎の地をイエズス会に寄付していることを知り、ポルトガルやスペインへの脅威を覚えて、宣教師たちの布教活動の禁止・国外退去を命じたのです。
ただ、依然として貿易は推奨されたために追放令は不徹底に終わりました。
その後に起こったのが、サン=フェリペ号事件です。
1596年、スペイン船のサン=フェリペ号が四国の土佐沖に漂着しました。
この時、現地に派遣された秀吉の家臣・増田長盛の報告書(スペインが世界征服を目論み、日本にも侵略しようとしているという都のポルトガル人の発言)や、積荷を没収された船員の「スペインは布教を征服の一環として行なっている」という発言があったため、秀吉のキリスト教への恐怖や不信を募らせる結果となりました。
そして1597年には、長崎・西坂の丘で二十六聖人の殉教が起こったのでした。
その後、関ヶ原の戦いに勝利して天下統一を果たした徳川家康から始まる徳川幕府も、次第にキリスト教弾圧の姿勢を強めていきます。1614年、全国に禁教令が出されました。
キリシタンの弾圧は苛烈を極め、火炙り、水磔(海での磔)、穴吊り(逆さ吊り)、果てには雲仙岳の煮えたぎる熱湯を浴びせるなど、残酷な方法になっていきます。また、キリシタンの多い地域では、踏み絵によって定期的にキリシタンではないことを証明させました。
(その後、鎖国体制が終わりを迎えるまで踏み絵は続きます)
そして1637年、領主の悪政に反発したキリシタン農民による島原の乱が発生し、徳川幕府は本格的な鎖国体制へと舵を切ったのです。
(歴史の振り返りは受験で使用した教科書を参考にしました・・・)
2. ありし日の師を想い、日本に渡った2人の宣教師
遠藤周作が描いた『沈黙』の舞台は、そんなキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる最中の長崎県外海(そとめ)地区です。
↓『沈黙』ゆかりの地を特集しているページです。↓
https://www.nagasaki-tabinet.com/static/silence/
それでは、物語の中身に触れていきたいと思います。
17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教 (信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは 日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の 井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々ー
守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とはー
(『沈黙-サイレンス-』公式サイトより)
物語の中で2人の神父、セバスチャン・ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とフランシス・ガルペ(アダム・ドライヴァー)は1638年の3月にポルトガルを出発、ゴア、マカオを中継しながら、1639年の5月に長崎に上陸します。
そして2人は、彼らをかくまったトモギ村のキリシタンたちと親交を深めていきます。
村人たちは貧しく苛酷な暮らしをしながらも、キリシタンであることを悟られまいと、村人同士固く結びつき、常に感情を出さない仮面のような表情をしています。
本当に長い長い間、この百姓たちは牛馬のように働き、牛馬のように死んでいったのでしょう。我々の宗教がこの地方の農民に水の染み入るように拡がっていったのは、他でもない、生まれてはじめてこの連中が人の心のあたたかさを見たからです。人間として取り扱ってくれる者に出会ったからです。司祭たちのやさしさに動かされたのです。
【P45 遠藤周作(1981).『沈黙』新潮社】
正直、いったいなぜ突然外国からやってきた見慣れぬ風貌の人物が説く教えが、多くの人に受け入れられたのか、私には不思議でした。
ですが、このロドリゴ神父の言葉にハッとしました。
話す言葉も、着る服も違うけれど、そういった表面上の隔たりを越えた神父たちの温かい心に触れられたことが、苛酷な日々を暮らす農民たちの心をとらえたのかもしれません。
3. 神の沈黙
やがて、2人の神父をかくまっていたトモギ村の人々は、役人たちに目をつけられてしまいます。
あまたの日本人の信者とパードレが同じ気持ちで自分の足の前に差し出されら聖像画にむきあったことを知っていました。しかしそれをどうしてこの可哀想な三人に要求することができたでしょうか。
「踏んでもいい、踏んでもいい」
【P81 遠藤周作(1981).『沈黙』新潮社】
ロドリゴ神父は、待ち受ける踏み絵を前に、信仰を守り拒否するか、村人たちを守るために踏むか、悩み苦しむ村人のモキチ(塚本晋也)に言ってしまったのです、「踏んでもいい」と。
(ロドリゴ神父)
Trample, trample.
That's alright to trample.
(ガルぺ神父)
What are you saying?
You can't. Mokichi, you can't.
ガルぺ神父は、あくまでも信仰を守るよう促します。
それでも、ロドリゴ神父は彼らにこれ以上の苦しみを与えたくはありませんでした。
それは神父としてではなく、目の前の小さき者と同じ立場にある1人の人間として抱いた感情だったのだと思います。
(ロドリゴ神父)
Your faith gives me strength, Mokichi.
I wish I could give as much to you.
結局、役人たちに引き出された村人たちは葛藤の末、聖母マリアの像の上に足を置きます。
しかし、それでは終わりませんでした。
キリストの十字架に唾を吹きかけ、聖母マリアを「淫売」と罵ることを強要された彼らは、それを拒否して水磔にかけられることになったのです。
造作もなく像に足をかけ、十字架に唾を吐いたキチジロー(窪塚洋介)を除いて。
そして始まる水磔のシーンは、あまりにも強烈でした。
(予告編もこのシーンから始まっています)
モキチは波に揉まれながらも、隣で力尽きたじいさまのために祈り、そして潮が引くと消え入りそうな声で聖歌を歌います。
海はただ容赦なく、いつも通りの潮の満ち引きを繰り返します。
それだけでモキチらの命は削られ、そして消えていくのです。
ああ、雨は小やみなく海にふりつづく。そして海は彼等を殺したあと、ただ不気味に押し黙っている。
【P91 遠藤周作(1981).『沈黙』新潮社】
ロドリゴ神父は、彼らが信仰のために苦しみながら死んでいくのを目にして、神がなおも押し黙ったままでいることに葛藤し始めます。
2人の神父は、彼らの前にただ無力でした。
(ロドリゴ神父)
But did he hear their screams?
How can I explain his silence to these people who have endured so much?
4. そこには誰もいないのだろうか、それとも・・・
神の沈黙。
信仰のために生じる、あまりにも重い犠牲。
キチジローのような、どこまでも弱く惨めな存在。
キリスト教の根づかぬ日本という「沼」。
ロドリゴ神父の前には、多くの壁が立ちはだかりました。
弱く惨めで、信仰を強く守り抜くことのできないキチジローは、ロドリゴ神父に何度もコンヒサン(告解)を願い出る。
イノウエ様こと井上筑後守(イッセー尾形)は、ロドリゴ神父に言い放つ。
The price for your glory is their sufferings.
最終的にロドリゴ神父は、自分が棄教すれば、穴吊りにされながら呻き声を上げる人々を救うことができる、という究極の選択を迫られます。
すでに棄教した(=転んだ)、ロドリゴ神父のかつての師・フェレイラ(リアム・ニーソン)が語りかけます。
「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えば、あの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。なのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖しいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖しいからだ」
「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」
【P264-265 遠藤周作(1981).『沈黙』新潮社】
そして、ロドリゴ神父もまた、棄教を選びました。
キリストの顔に足をのせるその瞬間、その声が聞こえてきます。
Come ahead now, it's alright.
Step on me.
I understand your pain.
I was born in to this world to share man's pain.
I carried this cross for your pain.
Your life is with me now.
Step.
そして、ロドリゴ神父はキリストの顔に足を置き、文字通り「転び」ました。
ロドリゴが葛藤しつづけた、神の沈黙。
しかし、もはや神父ではなくなった自分のもとに再びキチジローがコンヒサン(告解)に訪れた時、彼はようやく神の答えを得ます。
神は沈黙していたわけではなく、共に苦しんでいたのだと。
そして、例え沈黙していようと、ロドリゴの人生の全てが彼について語っていたのだと。
(ロドリゴ)
But even if God had been silent my whole life to this very day,
everything I do, everything I've done speaks of him.
It was in the silence that I heard your voice.
映画のラストでは、ロドリゴが「岡田三右衛門」として亡くなり、彼の妻が密かにその胸に供えた、モキチの十字架と共に炎に包まれていく様子が映されています。
ザビエルの絵に描かれたような「燃える心」を、彼が持ち続けていたことを示すように。
信仰とはいったい何なのだろうと、ロドリゴの生涯を前に考え込んでしまいます。
信心深くない私が大したことは言えないのですが、そこには言葉では表せないような深い愛があるような気がします。
長く長く続いてきた宗教ほど、変わらぬものとしての聖典は大切にされ、様々なしきたりや規則などの「形」を守ることで、その教えを徹底し、受け継いでいくことを推奨しているのかもしれません。
ロドリゴはその点で、「形」ある信仰からは降りています。
しかし、神は確かに彼の心の中で共に生き続けていました。
「形」はないけれど、彼は常に神の沈黙の声に耳を傾けていたのです。
モキチたちの信仰も、そんな「形」のない、直接神に語りかけるような強さの愛で成り立っていたように思います。
またロドリゴは、キチジローの果てない弱さの中に自分を、そしてキリストを見ました。
それらのすべてを認めます。もう自分のすべての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあると言うのでしょう。だがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別のものだと知っている・・・それは今日まで司祭がポルトガルやローマ、ゴアや澳門で幾百回となく眺めてきた基督の顔とは全く違っていた。それは威厳と誇りとをもった基督の顔ではなかった。美しく苦痛をたえしのぶ顔でもなかった。誘惑をはねつけ、強い意志の力をみなぎらせた顔でもなかった。彼の足もとのあの人の顔は、痩せこけ疲れ果てていた。
【P273 遠藤周作(1981).『沈黙』新潮社】
威厳も、誇りも、美しさも、強さもない。
ただ弱き者と共にその十字架を背負い、共に苦しむ存在。
厳しい弾圧に晒された日本のキリシタンたちは、やがて「潜伏キリシタン」「かくれキリシタン」となって、密かにその信仰をつないでいきます。
中には、日本土着の宗教と融合して本来のキリスト教とは異なるかたちで、受け継がれる信仰もありました。
それでも苛酷な日々を、残酷な弾圧を耐え忍んで彼らが祈りを捧げた神は無意味なものであると、ロドリゴは決して言わないのではないでしょうか。
高校生の時にはなかなか読み進められなかった物語が、今になってこんなに胸に響くなんて、不思議な体験でした。
今回は小説と映画をごちゃ混ぜにして書いてしまいましたが、所々描写が異なる部分もあります。小説は小説として、映画は映画として、ぜひどちらも体験してみてください。
また、2018年7月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、世界文化遺産にも登録されています。
いつか、ぜひ足を運んでみてください。
私も全部巡りたい!
☆追記
この映画の俳優陣は素晴らしかったです。
どうしようもなく弱いキチジローを体全身で演じた窪塚洋介。
踏み絵のシーンでの、足をチョコンと置く卑しい仕草、弱々しく吐く唾、ガニ股で走り去っていく後ろ姿、全てがキチジローでした。
アンドリュー・ガーフィールド演じるロドリゴ神父と、アダム・ドライヴァー演じるガルぺ神父の姿は、とても対照的で、それぞれの信仰のあり方、人間らしさを感じることができました。
アンドリュー・ガーフィールドはスパイダーマン、アダム・ドライヴァーは『スター・ウォーズ』シリーズのカイロ・レンとしても有名ですね。
モキチを演じた塚本晋也さんの姿は、決して忘れられないと思います。
実際に、自身も映画監督として活動されている塚本さんは、モキチのキリシタンとしての信仰を自らのマーティン・スコセッシ監督への信仰に重ねながら演じていたそうです。
物語としても、映画作品としても、自分にとって唯一無二の大切な存在になりました。
後、『沈黙』を読む前に同じく遠藤周作の『海と毒薬』を読みました。
第二次世界大戦の末期、九州帝国大学の医学部で実際に起きた米国人捕虜の生体解剖事件を取り扱っています。
(『沈黙』と同じく、あくまで創作の物語です)
もしかしたら、『沈黙』よりも衝撃は大きかったかもしれません。それは、少なからずもそこに「自分だったら」という問いを抱きやすかったからだと思います。
(これをやった後、俺は良心の呵責に悩まされるやろか。自分の犯した殺人に震えおののくやろか。生きた人間を生きたまま殺す。こんな大それた行為を果たしたあと、俺は生涯苦しむやろか)
ぼくは顔をあげた。柴田助教授も浅井助教授も唇に微笑さえうかべていた。
(この人たちも結局、俺と同じやろな。やがて罰せられる日が来ても、彼等の恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてではないのだ)
【P146-147 遠藤周作(1960).『海と毒薬』新潮社】
また、機会があれば振り返りたいなと思います。
長くなったー!!!
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