『小説の真髄とは何か』芥川龍之介と谷崎潤一郎の文学論争。
芥川龍之介は「文芸的な、余りに文芸的な」というタイトルの文芸評論を1927年に雑誌「改造」にて連載した。この文芸評論は「芥川龍之介」と「谷崎潤一郎」の二人が巻き起こした文学論争に大きく関わっている。
二人が巻き起こした論争の内容は「小説の真髄が『筋の面白さ』と『詩的な芸術性』のどちらにあるのか」ということであった。両氏の詳しい主張については「文芸的な、余りに文芸的な」を是非一読していただきたい。ここでは、説明のために大雑把に両氏の意見を要約させて頂く。(要約すると、繊細な部分が抜け落ちるのは勘弁願いたい)
・芥川龍之介→小説において重要なのは「詩的な芸術性」
・谷崎潤一郎→小説において重要なのは「筋(ストーリー)の面白さ」
比べてみると、どちらの意見もよく分かる。というかこれは、両氏の書く小説の特徴を反映しているという感じだ。一概にどちらが正しいとか、どちらが間違っていると答えを出せるようなものではないだろう。結局、この論争は数カ月に渡り続いたが、結論が出る前に芥川龍之介が自殺をしてしまい幕を閉じた。
「論争に対する僕の考え」
この論争に対する僕の考えは、谷崎潤一郎氏を指示する立場にある。つまり、小説の真髄は「筋の面白さ」にあると考えている。これには、僕が普段読んでいる小説のジャンルが深く関係している。僕が好きな小説のジャンルは主に「ライトノベル」「推理小説」「ファンタジー」等である。これらは、もれなく娯楽小説もしくは大衆小説といわれるジャンルで、重要視されるのは「話の面白さ」だ。
こんなジャンルの小説ばかりを読んでいる人間が、小説の真髄は「詩的な芸術性だ!」といっても滑稽でしかないだろう。谷崎氏の考えを支持するのは当然かもしれない。
とはいえ、この一年ほどは名著といわれる作品が読みたくて、随分と純文学を読むようになった。芥川龍之介・谷崎潤一郎、両氏の作品もかなりの数を拝読させていただいた。そうなってくると、以前までは理解できなかった芥川氏の考えも、すんなりと自分の中に入ってくるものがある。
特に、芥川龍之介が書いた「歯車」という作品は小説の筋としては意味不明だが面白く読むことできた。これは、純文学に多く触れることで自身に起きた変化である。この変化を経て僕は、ますます両氏の論争に答えを出すことが難しくなった。
はっきり言ってどちらの意見も正しいのだ。さらに踏み込んで言うと、芥川龍之介の作品の中にも「筋の面白さ」は存在するし、谷崎潤一郎の作品の中にも「詩的な美しさや芸術的な要素」は存在するのだ。結局これは、両者が小説の中に「筋の面白さ」と「詩的な美しさや芸術的な要素」を落とし込む割合の話でしかないと思う。
その証拠に、芥川氏も「文芸的な、余りに文芸的な」の中で、谷崎氏をむやみやたらに否定しているわけではない。結局、論争とは周りの人が勝手に言っているだけの話で、両氏はむしろ、文芸評論として自身の小説に対する立場を明確にしているだけである。
その証拠に両氏は決して仲が悪いわけではなく、論争中も一緒に出かけたりしている。二人が行っているのはあくまで論争であり、議論である。喧嘩では決してないのだ。相手の人格を無闇に否定したり、攻撃するということはない。
「二人の論争から見る議論のあり方」
このように健全な議論は最近、中々見られないように思う。SNS上では毎日のように炎上騒ぎがあって、誰かが攻撃されている。政治に関しても、人格の否定が散見されて肝心の議論がされてないように見える。
「芥川龍之介と谷崎潤一郎」この二人のように互いに意見を交換し高め合う議論を行う。僕自身も、そんな議論が出来るようになれば良いと思う。それが理想的であり、意味のある論争だ。
さて、あなたは小説の面白さは「筋の面白さ」「詩的な芸術性」どちらにあると考えるか。あなたの意見を聞いて、意味ある楽しい議論が出来ればこの上ない幸せだ。
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