『記憶と感情のエスノグラフィー』を読んでは独り言・其の四
その方は
薬局で1時間ほど
お話していった
時に感情を露わにして
時に怒鳴るようにして
時に微笑んでみたりして
その方とは
その日に限らず
何度も話をしてきた
話をしたといっても
私は聴くことに徹しているつもりだ
というのも
その方は怒り始めると
止まらなくなるからだ
かれこれ10年程前に
その方から薬局の現場で
怒鳴られ続けた
今で言えば
カスタマーハラスメントだろう
そんな方だったので
なるべく刺激しないようにと
無意識に思ってしまう自分がいる
そんなこんなで
約1時間の会話の中で
私が話をしたのは
おそらく10分程度なのではないかと
記憶しているが
実際に時計を見て記録しているわけでもなく
肌感覚としてその程度だということだ
50分程
話を聴く中で
ここ数日で聴いていた話とは
内容が異なっていると気付く
あるいは
話を聴く中で
数十分前に話をしていた内容が
言い間違いもあるかもしれないが
微妙に変化していることに気付く
あるいは
話を聴く中で
思い出したかのように
話を紡ぎ出すためか
私の頭は何が何だかわからなくなる
そんな話なのに
目の前のその方の頭の中では
首尾一貫した物語として
語られていく
その物語が否定されようものなら
途端に機嫌という波は
荒波へと変わっていく
私は漕ぐ
荒波の中を
どこへ向かっているかもわからぬまま
ただただ話を聴いていたのだった
そんなことを思い出しながら
今日もまた
読んだんだか読んでいないんだか
積んだんだか積んでいないんだか
といった本達の中から一冊紹介し
心の琴線に触れた一節を取り上げ
ゆるりと書き記していきたい
今回はこちらの本を読んでは独り言
漬けることの多くなっている本書
というより
前回も書いたが
最近あまり
まとまった読書時間を取れていない
一度読んだ頁も
しばらく漬けていると
すっかり私の記憶の中から
抜け落ちてしまう
いかんいかんと
自分に鞭を打ちたい気持ちと
仕方ないさと
自分に飴を与えたい気持ちが
混ざり合いながら
日々は過ぎ去っていく
さてさて
いつものように
引用する必要があるんだかないんだか
本来の引用の意義を考えては
自己ツッコミを入れつつ
noteの引用機能を用いて
引用させていただきたい
その方の言葉は
その方の記憶の中で
その方特有の物語として
紡がれていく
その方の言葉は
私が見ていない出来事を語り
私が見ることのできない記憶を語り
その方特有の物語として
紡がれていく
それを聴く中で
私自身口を挟むことはできない
それは
下手に口を挟むと
10年前のあのときのように
怒りを撒き散らし
怒号をあげる様子を
見せられることになるかもしれない
そんな記憶が
私の後ろ髪をひくからか
私は聴くことしかできなくなる
もちろん
聴くことがケアの一歩である
という私の考えも影響しているとは思うが
過去のトラウマが蘇り
何も言えず
聴くことに徹しているのかもしれない
そんなふうにも思っている
何にせよ
その方の言葉を
真に理解することはできない
その上で
聴くだけではなく
何かできることはないのか
と思ってしまう
果たしてそんなことは可能なのだろうか
果たして…