何故、他者を受け入れることがこれほど困難な社会なのか。
不寛容社会の定義と今回の課題
注目すべきはSNSの発達による個人の発信力の向上が大きな要因となっている事である。
本や雑誌は執筆後は校正が行われ一度審査を経て出版される事が先進国では多い。
校正は時として過激な表現を取り下げたり、修正を行う事で書籍の価値を保証していた。
しかし、SNSはテキストベースに口語が混じりコミュニケーションと書籍の境界線に位置している。
そのため、正しさ(この場合は正確性やモラル)の優先順位は低くてよい媒体とされている。
そのため、表現はオンタイムで行われ突発的であり衝動的な悪意を持った表現こそ目立ちやすい。
本来憚られるべき表現や、一呼吸を開ければ寛容になれる問題にもわざわざお気持ちを表明してしまう。
3000年前の古代インカ帝国には書籍のような意味を持つ物が誕生し、1450年活版印刷の発明を機に世の中に無くてはならない物となった。
本来、技術や知識を効率良く吸収できるために人は何かを書き記していたが、SNSにはその要素は一体何%含まれているのだろうか。
10年程度、歴史としてはとても浅いSNSについて我々が適切に扱うにはあと何百年かかるのだろうか。
今回は情報媒体の進化がもたらした、不寛容と呼ばれる現代社会の関係性について考察しながらも私見を述べていきたい。
エピソードから不寛容を読み解く
最近はありとあらゆる場所で禁止や不寛容な出来事が増加している。
例えば喫煙、公園の騒音・花火大会、部活の声出し、カスタマーハラスメント、モンスターペアレント。
どれも根底には『不寛容』が根付いているが問題の本質はそのような単純な事では無い。
例に挙げた事柄も少なからず落ち度が不寛容を味わう側にも存在するのだ。
喫煙による健康被害についてはご存知の通り、騒音も近隣の住民からすれば迷惑極まりない事であり許せない気持ちも理解出来る。
車の運転中などは特に不寛容について感じる事が多いのでは無いだろうか。
横断歩道を渡る高齢者がいる。
私は自動販売機の前からそれを見ていた。
何らかの事情を抱え歩く速度がゆっくりである。
横断歩道を渡り切る前に赤信号に変わった。
左折の車が横断歩道へ侵入した。
鳴り響くクラクション。
こんな事は日常茶飯事に起こっている。
交通ルールを守っていないのは高齢者である。
それは誰もが理解出来るだろう。
何故、運転者はクラクションを鳴らしたのだろうか、その怒りはどの様な結果を期待していたのだろうか。
この段落では上記のエピソードを分解して考察する事で不寛容が生まれる要因について解き明かしていきたい。
前提条件として高齢者はルールを守れなかった。
守れなかったと書いているという事は第三者として観察していた自分には、守りたいけど守れない事情があったと判断出来たからである。
それは観察者の属性により変動する物だろうか。
私自身は病院で働いている、家族仲が良い、祖母と今でも出かける事がある。
なので横断歩道を渡りきれない高齢者がいる事に疑問はなく、本人の落ち度は限りなく低いと判断した可能性はある。
そのため一つの要素として観察者の生活背景や知識は不寛容の発生の要因となり得る。
『個人の性格による』だけではシンプルでありここまで世界規模の問題にはならない。
そのためその他の可能性を考察する。
瞬間での判断は人を不寛容にさせる。
まずは定義として瞬間を十分な思考が出来ない速度とする。それは前頭葉を介した認知プロセスでは無く限りなく反射に近い状態であるとする。
上記の定義から考えると
運転手は足の遅い高齢者が横断歩道にいるのに対してクラクションを鳴らした。
では瞬間としてはあまりにも長い。
そこまで考える時間的余裕はない。
そうなれば運転手が感じたのは横断歩道に人がいるのみであるだろう。
あくまでこれは推察でしかないが横断歩道に人がいたのでクラクションを鳴らした。
少しエピソードの悪意が下がった。
次は人とクラクションについての関連であるが、横断歩道に人がいたとしてもクラクションを鳴らす意味はないと私はその時思った。
おそらくこのエピソードを読んだ読者も同じ気持ちになるだろう。
それは高齢者の速度が速くなる訳でも無ければ、むしろ転倒したり危険性が増すばかりだからである。
しかしそれはあくまで客観的に観察しており、時間的に猶予のある第三者のみが辿り着く視点である。
その瞬間にクラクションの意味など運転手自身も理解していない。
理解出来るわけないのである。
ただ運転中危険場面ではクラクションを鳴らすというパターンが側頭葉に保管されており
横断歩道+人=クラクション
ただの反応が生じただけである。
ここまで読み解くと新たな可能性を感じることが出来た。
本当に不寛容だったのは観察者(私)である。
私は運転手が知りえもしない、情報を知っており、そこから自身の背景因子から物語を解釈して『運転手は心が狭い』と感じていた。
この結果からそれぞれの属性・時間軸を同一視する事で不寛容を生まれるという事が分かった。
噛み砕いた言葉で表現すると、私は自分の考えを他人に押し付けた。
まさに不寛容そのものではないか。
不寛容を表現するかどうか
先程の段落では第三者が最も不寛容の罠に嵌ってしまっていた所で結論が出たが、次は表現と不寛容の関係性を探っていきたい。
それを世界に向けて発信するかどうか
例えば私が
横断歩道でおばちゃんがギリギリ青信号の内に渡れなくて、そこに来た車がクラクションをわざわざ鳴らしてた。おばちゃん可哀想、心狭すぎ。
のように書いたとしよう。
流石に運転手には届かない。
加えて所謂バズるわけもない。
ただフォロワーの記憶に文書が僅かに残る。
その後何が起こるのか考察する。
横断歩道+高齢者+クラクション=心が狭い
という価値観を私は表現した。
その事を1番記憶するのは自分である。
インプレッション→アウトプットでしっかりと海馬に情報を保存した。
似たような問題は街を歩けば何度も遭遇するだろう、その度に私は不寛容な人が多いなと感じる。
もうこの時点で不寛容社会が誕生する。
一度不寛容社会に身を投じてしまえば、その他の現象も気になってしまう。
最初に挙げられた喫煙、騒音やクレーム等に対しても現代人は不寛容な人が多い、息苦しい世の中になったなと考える。
恐らくこれは意識的に考えるというよりは、無意識的な感情であり、知性は持ち得ない。
ぼんやりとした嫌な感情がただ湧くだけである。
ただ実際は自分が不寛容なのは前の段落で結論がついている。
という事は、自らの不寛容さで人を評価した事が結果として不寛容社会を作り出し疲弊したという事になる。
何と愚かな事だろうか。
SNSとの関係
では最終的にSNSとの関係について帰結しようと思う。
SNSでは時間軸・背景因子を無視したテキストベースの投稿が氾濫している。
発信者にとってSNSはあくまでコミニケーションである。
ただ読み手にとっては本である。(本の構成を要素は満たしていないが概念として本であると表現する。)
この関係性の不一致により、読み手にとってはそれは紛れもない事実であり正確性を得ているという誤認をさせる。
また発信者としては、ただの会話の拡張でしか無いので正確性を求められる必要もないので、反芻してから投稿はしていない。
誰も悪くないのである。
そこにはただ人間の性質、そしてSNSの特性がそうした現象を生み出すだけである。
そうして莫大な数の不寛容を毎日享受する事で自分や他人が表現した不寛容を受け取り、我々は不寛容社会を嘆く。
馬鹿げているが大真面目だ。
敵など最初から居ないのにも関わらず自分の考えを押し付けあっている様である。
結論:何故、他者を受け入れる事がこれほど困難な社会なのか?
それは他者について理解する時間を設けていない事が多くの原因であると今回は結論付けたい。
何故?という問いに対して、何故?と人に対して考える事が出来ていないから不寛容さを感じているという事である。
それには各個人の内面的要素が大きく関係していると推察する。
財産、時間的余裕、幸福度、今の日本人は無いものばかりである。
それが人に対して考える時間を奪ってしまっているのでは無いかと予測される。
あくまで結論は予測の域を出ない。
ただこの一種の仮説を知る事は、より良い日々を送る一歩になるのでは無いかと考えている。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
※あくまで個人の意見になります。