【読書録】古川日出男『超空洞物語』
古川日出男『超空洞物語』(講談社)を読んだ。自分はもう古川作品の良い読者ではないのかもしれない。
予習だと思って手に取った角川ソフィア文庫の『うつほ物語』、面白くなさすぎて読みきれずに断念。
そもそも古川作品のなかでも古典に材を取った『平家物語』(河出書房新社)、『女たち三百人裏切りの書』(新潮文庫)、『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』(新潮社)の3作品は最後まで読み切れていない。個人的に古典は「難解だが何度も読めば咀嚼できる」といったものではなく、そもそも必要な前提知識/予備知識が多すぎて申し訳ないが着いていけない。
人口に膾炙する古川の「幻視する力」を現在や未来に使えば政治家や宗教家になってしまう。あくまでも小説家として文学の領域を拡張することが古川の至上命題だ。『曼荼羅華X』や『の、すべて』ではその辺りがかなり自覚的に描かれているし、『の、すべて』のモチーフの一つとして出てくる「ぶらんこ」は、現在という重力に引っ張られて過去と未来を往還する存在(登場人物?著者?読者?)を潜在的に表しているように思える。
余談だがぶらんこと聞くと、三橋鷹女「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」という名句を想起する(『の、すべて』は愛の物語でもある)。揺れるぶらんこの座面がそのまま体操の大車輪のように頂点に達すると門に似た形になる。門は鳥居を想起させる。つまり作中で都庁をぶらんこだとするその目は同時に、都庁を天から逆さにそびえる鳥居として幻視している。このメタファーにはまだまだ解釈の余地がありそうなので改めて『の、すべて』を読み直してみようと思う。
閑話休題。
彼の力を、小説家としての枠を超えかねない現在や未来ではなく、強度がある過去≒古典にぶつけるのは恐らく正しい。ただブログや朝日新聞での優れた時評を読んでいると、もはや表現形態は小説ではなく批評で良いのではないかとどうしても思ってしまう。『超空洞物語』は古典をモチーフとし称揚しつつ自身の哲学も織り込み、小説の構造をも革新させようとしているが、荒技すぎて理解が追いつかない。エンターテインメントとして成立しているとは思えないし、一千年後も神話のように語り継がれる小説たりえているとは思えない。本人はもちろん望んでいないだろうが、むしろ今の彼がオーソドックスなゆきて帰りし物語/貴種流離譚をエンターテインメントとして描いたらどんなものになるだろうかと夢想してしまう。
古川は「100人に読まれる小説よりも100回読んでくれる1人がいてくれればそれで良い」というようなことを言っていた(し、それには大いに共感する)が、近作はどうも袋小路に迷い込んでいるように思えてしまう(読みが甘いことによる杞憂でしかないと思うが)。どうかその道がただの隘路であってほしい。もしくは袋小路の壁ごと破って新たなる境地へと突き抜けていってほしい。