私という一つの肉体
私は毎日ディスプレイとにらめっこし続けるような生活をしているので当然と言えば当然のことだが、眼精疲労及びそれが誘発する頭痛や肩こりには万年悩まされている。
使っているのは眼球なのに、頭痛はまだしも肩こりが誘発するなんて、と最初は考えたものだが、私という肉体が有機的に繋がった代謝する生物のそれである限り、身体の一部の異常が他の部位に飛び火するのは避けられないことらしい。
前に「目薬は鼻と喉に抜けるから嫌い」という記事を書いたこともある。
眼窩と鼻腔と消化器系と呼吸器系がまるっと全部近接関係にあるというのは、考えてみれば中々恐ろしい話だ。
しかもこれらの顔に空いた穴からは容易に脳に到達することができる。
堅牢な頭蓋骨に守られた側頭部よりも、顎の下や口腔からの方が脳を破壊しやすい……というのは、拳銃自殺などについて少し調べれば簡単に分かることだ。
我々の致命的な部位というのは相応の守りに固められているが、少しの知識と断固とした覚悟があれば、その守りをすり抜けることは造作もない。
それに、身体の強度を完全に無視できる大質量などにかかれば、その知識すら必要ない。覚悟もないままに事故で死に至ることも、生きている限りその可能性を払しょくできない。我々の肉体、そして精神は、これらの致命的な事態から逃れるには余りにも脆い。
「肉体、そして精神」。そうだ。肉体が死に至れば精神もまた死に至る可能性が非常に高い。
というかそもそも、肉体と精神を区別するかどうかという点で論争が発生しうる。
「我々は肉体のみからなる存在であり、精神なるものは錯覚の産物に過ぎない」、「我々の肉体には精神が宿っており、しばしば精神は肉体の影響を受ける」、「我々の精神は肉体に先だって存在するものであり、肉体と無関係に作用している」「我々は精神の身からなる存在であり、肉体なるものは空想の産物に過ぎない」、「我々の肉体と精神と呼ばれているものは本来不可分のものであり、分けて語ること自体ナンセンスである」……
と、軽く挙げるだけでもこれだけの数の考え方が存在する。
私の考え方は、上に列挙した思想の中だと一番最後に挙げたものが最も近い。
便宜的に肉体と精神というふうに言葉を分けて語ることはあるが、それは肺と心臓を分けて語るのと同じ程度の区別だ。
眼精疲労が頭痛や肩こりを引き起こすように、あるいは眼窩から滴った目薬が鼻を通って喉に抜けるように、肉体と精神も繋がっているもので、相互に影響しあう。
低気圧で気分が悪くなったり、冬季うつと呼ばれるものが存在しているのも、この二者が不可分のものであることの証左だと言えるだろう。
当然、他の説でもそれぞれのやり方で、こうした肉体と精神の関係について説明していることだろう。
結論に違いは出るかもしれないが、どの説を採用しようと眼精疲労で肩は凝るし、目薬は鼻に抜けるし、肉体にストレスを受ければ精神に、精神にストレスを受ければ肉体にフィードバックが起こるのは変わらない事実だろうと思う。
大風呂敷を広げておいて着地地点を見失った感が否めないが、ひとまず言えることとしては、我々の肉体(この「肉体」は精神を包含するものとする)は非常に複雑で繊細な有機的構造体であり、一つの異常が別の部位や全体に影響を与える可能性があるため、日々の生活には気を付けなければないということだ。
長時間ディスプレイを見つめたら適宜休憩をとること。目薬をさしたら目頭を押さえて流出を防ぐこと。肉体が疲れたら自分の好きなことに時間を割いてやること。精神が疲れたら美味しいものを食べてよく眠ること。
それが健康的な肉体であり精神であるところの我々の過ごし方というものだ。