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20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第9話~FUNKの夜明け編~

時は一旦1989年の6月に戻る。

1989年6月のある日、旧校舎の学食の売店前の「いつもの指定席」でカレーとコーヒー牛乳を食していると、ハルノがベース・ギターのソフトケースを持って現れた。

「ベースやるの?」と私は訊いた。

「今日、セッションなんだよ」とハルノは答えた。

「ちょっと弾いてみてよ」と私が言うと、ハルノはおもむろに白のプレシジョン・ベースをソフトケースから取り出した。

そして、いきなり弾き出した。

スライ&ザ・ファミリーストーン、『サンキュー』であった。

私は、そんなの弾く人間を生まれて初めて見て、ひっくり返った。

「スライ好きなのかっ!?」私は興奮して尋ねた。

「当然でしょ」とハルノは少し自慢げに笑いながら言った。

「ところでよお、ブーチー来るよな!」

「当然行くよ」

世の中の空気が変わっていくのが分かった。

密かに、人知れず、高校時代からP-FUNKを愛でていた私であった。

これまでも「我々の上の世代」が「キッチュなコスプレ」としてブラック・ミュージック(いわゆる「ソウル」「ディスコ」系列)を愛好していたムーヴメントはあった。

いわゆる「六本木系」である。

それが、それまで「見向きもされてなかった」
P-FUNKに復興の兆しが現れた(筆者註:P-FUNKは「六本木系」とは相容れなかったようで、彼らのフェイバリットはアース・ウィンド&ファイヤーなのである)。

P-FUNK復興は、ヒップ・ホップ・ムーヴメントの興隆と同期し、
その「元祖」として再び表舞台に登場したのである。

一つのきっかけは、前年1988年に発売されたブーチー・コリンズのアルバム『What's BOOTSY Doing?』であった。

ピカピカの最先端のヒップ・ホップの連中とつるんで、ブーチーは最新の装いで表舞台に再登場した(とはいえ、基本フォーマットは全く変わってないのだが)。

そのムーヴメントに乗って、なんと、ブーチー・コリンズが初来日するのだ。

場所は当時の「最先端」スポット、「エムザ有明」(※1)である。

そうしてやって来た一カ月後の1989年7月後半。

我々はいつもの様に値段の安い「後部エリア」のチケットで有明エムザに入場し、客電が消えるや否や、柵を乗り越え最前列まで行った。

ステージかぶりつきである。

バンドの演奏が始まった。

バンドがイントロを奏でる。

「呼び出しMC」が客を煽る、

「セワッ?」「ブーチー!!!」

コール&レスポンスが始まる。

そこへ「マント」を纏ったブーチーが後ろ向きで登場。

「セワッ?」「ブーチー!!!!」

客席はヒートアップだ。

大先生、まだ後ろを向いたままである。

「セワッ?!」「ブーチー!!!!!!」

歓声はマックスに達した。

刹那、大先生、おもむろに振り向いた。

「ハレルーヤ!!!」

星サングラスに電飾星形ベース、シルバーのマントとロングブーツ、、、我々は絶叫した

ブーーーーチーーーー!!!!!!!!!」

見事なエンターテイメントである。

そして、ハルノがブーチーの横を指さして叫んだ「メイシオー!!!」、
なんとメイシオ・パーカーがサックスである。

我々は当然のごとく絶叫した

「メイシオー!!!!!!!」

初めて体験するブーチーの「スぺース・ベース」は想像を絶した。

あんなものを最前列かぶりつきで体験したんだから堪らない。

「パチンコ・ベース」

ブーチーのライブ以降、我々はブーチーの電飾ベースをこう呼んでいた。
確かにベースがそのまま「パチンコCRブーチー・コリンズ」である。

とんでもないグルーヴを初体験した我々は、
正に、

「神を見た!」

気分であった。

このブーチーの初来日によって、完全にP-FUNK・ルネサンスに火が付いた。

そして、遂にP-FUNKの首領であるジョージ・クリントン&P-FUNKオールスターズの初来日が決定したのである。

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日付は戻って、1989年9月半ば、

私がアメリカ旅行から帰国する翌日、
ジョージ・クリントン&P-FUNKオールスターズのライブの日である。

私は帰国するや、そのまま武蔵境のアパートで寝て起きると翌日有明へと向かった。

ブーチー以来の有明エムザである。

普段はバブルの象徴みたいな場所らしいが、
我々にとっては「FUNKの聖地」である。

遡れば高校時代、静岡の輸入レコード屋でジョージ・クリントンのソロ・アルバムを買い、幼馴染はP-FUNKオールスターズのアルバムを買った。
お互いにレコードを貸しあってカセットテープに落とした。

そして「パーラメント」と「ファンカデリック」へと遡った。
静岡では手に入らないので、東京に出かけては渋谷のタワーレコードで漁った。

聴くたびに「なにか物凄く”ワルい”感じがする」と思った。

通常のソウル・ミュージックに対して、物凄く複雑な構造と知的操作を感じた。

そして、当時は極々一部の人間しか知らなかった「GROOVE」という言葉を知った(筆者註:「GROOVE」という言葉、今でこそ一般化しているが、1980年代半ばにはそんな言葉だれも使っていなかった。その後「電気グルーヴ」の結成が奇しくも1989年である)。

そんなこんなで、いよいよ「P-FUNKの宗主」ジョージ・クリントンとの初遭遇の日がやってきた。

ハルノ、コヤマといつもの三人で、いつもの様に最前列まで難なく辿り着くとバンドが演奏を始めた。

物凄いグルーヴだ、特にドラムが圧倒的に凄い(筆者註:後で知ったら、デニス・チェンバースであった、凄い訳である)。

すでにフロアは超興奮状態、踊りまくりである。

そして満を持して、ついに「御大」登場!

あの伝説の「P-FUNKの宗主」ジョージ・クリントンが日本に初登場である!!!

「あれ?」

会場全体がその瞬間に壮大にズッコケた。

御大、なんと「ビジホの浴衣」を着ていたのである。

我々は指を指して笑った

「ビジホの浴衣だよ!!!!」

しかし、そのあとのショーは凄かった。

伝説のゲイリーシャイダーの「おむつ」!(筆者註:のちに確認したところ、シャイダーのおむつも「ビジホのバスタオル」であった)

そして、グルーヴの大嵐。

1989年の秋、
完全に世の中は「P-FUNK」一色になったのである。

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P-FUNK来日ラッシュを終え、時は1989年の10月になっていた。

そのお店はJR中央線・東小金井の駅の真ん前にあり、大学へ行く電車の中からよく見えた。

ボロボロの木造二階建てで外壁は「ブリキ」であった。

「スタミナの城」

と看板にはあった。

「ちょっとあの店、気になるんだけど」

と我々はいつも旧校舎の学食の指定席でダベッていた。

「よし、行くか!」と話はすぐにまとまった。

帰りにそのまま東小金井で下車すると、いつもの三人組で「スタミナの城」へと向かった。

どんなおどろおどろしい店かと緊張しながら扉を開けると、
実に正統派な海鮮居酒屋であった。

一階のカウンター席で短冊メニューをとりあえず頼んでみた。

「生ホタルイカ」「甘エビ」、どれも「神の領域」であった。

どいういことかとお店の女将に尋ねると、
「富山に船を一艘持っていて、毎朝そこから海鮮が直送される」とのことであった。

そして会計を見て驚いた。驚異的な安さである。一人3,000円もあれば十二分に満足できた。

以来、「いや~ ”スタ城” どうよ?」が我々の新しい合言葉になった。

さて、この後どうしようかと話していたら、ハルノが、
「花小金井にちょっと気になる店があるんだよね」

と我々はスタミナの城と駅の反対側の住宅街をてくてくと歩いた。

10分くらい歩いただろうか、外灯しかない薄暗い住宅街に、ポツンと立て看板が見えた。

「TOMMY BOY」

普通の二階建て住宅を改造したような建物の入り口を開けると、
そこは「音楽バー」であった。

一番奥にプロジェクター・スクリーンがあり、そこにライブ映像が映し出されていた。

我々はジャック・ダニエルズのボトルを入れ、料理を頼んだ(私はそこで生まれて初めて「野菜スティック」というものを食べた。衝撃的な美味しさだった)。

さて、この一見何の変哲もない音楽バーで、その後の人生を変える出会いが起きる。

我々が呑みながらバカ話に興じていると、突然プロジェクターの映像が変わった。

「ジェームス・ブラウン in 中野サンプラザ 1986」

私が美大を受験する前日に日本武道館のアリーナで観たJBの日本ツアーの中野サンプラザ編であった。

改めて冷静に映像で観ると、そのショーはありとあらゆる「キメ」「コール&レスポンス」「演出」が載った強烈極まりない「FUNKの教科書」であった。

そしてもう一曲、
左とん平『ヘイ・ユウ・ブルース』。

この幻の日本のソウルのスーパー名曲が突然スピンされ、
我々三人は呑んでたジャック・ダニエルズを思わず吹き出しそうになった
(筆者註:時系列的にはスチャダラパーによるサンプリングよりも早い時期である)。

以来、「トミー・ボーイ」は「秘密の音楽基地」として、数々の名盤名曲との出会いの場となった。

例えば、マイルス・デイビスの元奥さんの「ベティ・デイビス」(筆者註:ラリー・グラハムがベースの超名盤であった)であるとか。

そして、この時期の「トミー・ボーイ」での音楽的な修行は、のちの我々の「活動」に多大な影響を及ぼすことを、この時点ではまだ誰も知らないのであった。

(つづく)

脚注:

※1. エムザ有明。後の「ディファ有明」、2018年に営業終了。


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