【レゲエとマシンガン】 ジャマイカ~死闘編。
1990年代半ば、ダンスホール・レゲエ全盛期のジャマイカはキングストンに行った。
※「ジャマイカ1~ロックステディ編~」:https://editor.note.com/notes/n6c33168af870/edit/
カメラマンの友人と二人でジャマイカに行く前、情報収集のためにレゲエ専門誌『Rddim』を発行するオーバーヒート社を訪れた。
友人がコネクションを持っていたからである。
「とにかくジャロがヤバい!」
終始この話題が中心だった。
「ジャロ」とは「キラマンジャロ(Killamanjaro)」の略語で、キングストンのレゲエ・サウンド・クルーの名称である。
当時有名なレゲエ・サウンド・クルーには「ストーン・ラブ」や「メトロ・メディア」があったが、「ジャロ」に関してはその「凶悪さ」によって日本にまで悪名を轟かせていた。
オーバーヒート社のスタッフ曰く「クラッシュ(※サウンド・クラッシュの意味で、サウンド・クルー同志がバトルを行うイベントの事)」で、相手側のスピーカーに銃弾打ち込むなんてのは当たり前、最後はクルー同志がスピーカー(*3mほどの高さに積まれたクルーのサウンドシステム)を倒して乱闘になったところヘリに乗った武装警察の手入れを受けた」とのことであった。
キングストンに着いた我々は、夜になるとキングストンの中心部で行われている「ストーン・ラブ」のダンス(野外DJイベントの意)へと向かった。
ストーン・ラブはキングストンでも老舗のサウンド・クルーで、穏健でピースフルなダンスを開催している大御所クルーである。
我々はまだ夕暮れの明るいうちに会場入りし、クルーがスピーカーをセッティングする様を見学(友人は写真を撮り)していた。
会場はプライベート・ガーデンのような場所で、トタンの壁に囲まれている屋外スペースであった。
そのうち日が暮れてくると、キングストンのど真ん中から「ドーン、ドーン」とベースとキックの音が街中に鳴り響いてくる。
再び会場に戻ると、会場前では「ジャーク・チキン(*ジャマイカ名物のチキンのロースト)」の屋台が立ち並び、煙がもうもうと立ち上がる中にジャマイカ人が大量に集まっている。
我々は会場入りすると、伝説のストーン・ラブのサウンドで踊りまくった。
そのうち、とある事情でベンチに座ってぼんやりしていると、目の前の裸電球で照らされた暗闇の中で黒人たちが最新のダンスホール・レゲエで踊りまくる様に意識が吸い込まれていった。
半ば瞑想状態の中、その「ドラム・ビート」が完全に「アフリカ」由来のものであることがハッキリと細胞レベルで分かった。
私は
(今、一番ギリギリまでレゲエの神髄に近づいている。しかし、ここから先は我々日本人は入れない領域だ)
と、目の前の光景を見ながら思った。
(ジャマイカでも沖縄でも「ここから先は入れない」場所に立ち会い、音楽の「超グローバルでありながら超ローカルである」というアンビバレンスな属性を身をもって知ることになった。音楽の不思議である)
そして、1週間の「レゲエ三昧(*他のエピソードはまた次のエッセイにて)」の日々が終わろうとし、「明日帰国」という日の昼間、ジャマイカ在住の日本人ガイドが興奮しながら我々の元に駈け込んで来た。
「今晩、ジャロ、やりますよ!」
「ええ~~~!!!???」
我々はそのフライヤーが貼られた街中のトタン壁まで行き、確認した。
もう十二分にお腹一杯になっていたが(*他の満腹エピソードはまた次のエッセイにて)、我々の持っている「バカ磁石(バカな事象を呼び寄せる謎の力)」の強さを改めて思い知った。
夕方になり、我々はタクシーをチャーターした。
ガイドさん曰く、
「キングストンの街中ではジャロは危な過ぎて締め出されてて、今は山奥でやってるんですよ」
タクシーはキングストンの街を離れ、山に登り始めた。
街灯もない真っ暗な山道を走ると、遥か下にキングストンの街の灯が煌めいていた。
かれこれ30分ほど山道を走っただろうか、
突如真っ暗な舗装もされていない土の一本道の向こうから「ずどーん、ずどーん」と地響きを立てるベースの音が聞こえてきた。
刹那、ヘッドライトに照らされて、幅3mの一本道の両側に「ルード・ボーイ(ジャマイカの不良の意)」が百メートル近くの長さに渡りビッシリと立っていた。
チラッと見ると、「網シャツ」「顔に傷」の凄まじく目つきの悪い連中が百人以上道の両脇を占めていた。
私は彼らと目が合わないようにしながら、静かに車のロックをし、窓を閉めた。
「ずどーん!、ずどーん!!」ベースの音はどんどんデカくなる。
「着きました」
我々は超警戒しながらゆっくりとタクシーを降りると、ガイドさんがトタン壁で囲われた会場入り口で何らや話をつけたようだ。
会場と言っても、真っ暗な山の中の農場跡のような場所をトタンで囲ってあるだけだ。
料金を払い、トタンの合わせ目の隙間から我々は会場入りした。
ところどころ裸電球が吊るされただだっ広い屋外広場に3mほどのスピーカーが壁のようにビッシリと立ち並び、とんでもない爆音でレゲエ・サウンドが鳴らされていた。
周りは大柄なジャマイカ人だらけ、薄暗い中を大きな黒い塊が蠢き、時折裸電球に照らされて「目と歯」だけが真っ白に光った。
暫く歩を進めるとDJブースが2つ見えた。
ブースと言っても運動会で使うような「簡易テント」であるが。
そこに凶悪なオーラを漂わせるジャマイカ黒人たちが群がっていた。
「Mr.怖いもの知らず」の友人であるが、この時ばかりはこの異様な状況に(ヤバいな、、、)と私に囁いてきた。
我々は「後ろを取られないように」巨大スピーカーに背中を張りつけて陣取った。
噂の「ジャロ」は、DJ(*レゲエではマイクで煽る役)のリッキー・トゥルーパーが決めフレーズの「チャットボウ!!!!」「ハニナニエー!!!!(Put your hands in the airの意)」で煽り捲っていた。
我々はスピーカーに張り付きながらも、その凄まじい伝説のサウンドを全身に浴びながら踊っていた(だが、警戒だけは絶対に解かないようにしながら)。
すると、サウンドが一番盛り上がったところで「どすん」と音がした。
(もしかして、今の、銃声?)
我々は目配せした。
その一発だけで、それから後もダンスは盛り上がり、終盤を迎えようとしていた。
(そろそろ帰ろうか、明日は帰国日だし、、、)と思った矢先、
DJブースから見て右奥の会場を取り囲むトタンの壁のつなぎ目がスッと開いた。
そこからスッと「銃口」が顔を出した。
(え!?えむ、M16~~~!!!!???)
ゴルゴ13で良く見慣れたサブマシンガンである。
その瞬間、
「たたたたたたたたたたた~~~~~~」
と乾いた音が四方八方から鳴り響いた。
(うわ!クルーのサポーターが撃ち合い始めたのか!?)
と瞬時に日本で聴いたジャロの噂話を思い出した。
ここまでで「3秒」
刹那、目の前のジャイカ人達が「ライオンに襲われたインパラの群れ」のようにDJブースに踵を返して一斉に走り出した。
「たたたたたたたたたたた~~~~~~」
銃声は鳴りやまない。
私は瞬時にジャマイカ人の群れに紛れて一緒に走った。
途中、視界の片隅に「チャラい黒人ブル下がり日本人ギャルがコケて倒れていく様」がスローモーションの様に映ったが、0.01秒で「見捨てる」という選択をした。
そして5秒後、ジャマイカ人達と一緒に窪地に飛び込み、トタン壁に沿いながら「匍匐前進」をしながら逃げた。
私は周りのジャマイカ人を盾にするよに、より低く身を伏せ、手で頭を保護した。
夜露に濡れた草の中、身を伏せながら、
(ああ、ここでチュン!と一発頭に当たったら死ぬんだな、、、)と
命の儚さに0.1秒間想いを馳せた。
夜露に濡れた土と草の匂いが鼻腔をくすぐる、、、
「たたたたたたたたたたた~~~~~~」
最初の銃声から10秒経過。
私は(ああ、ダチは死んだ。明日は俺一人で日本に帰るんだ)と思いながら、ジャマイカ人の群れに紛れて「廃墟小屋」に飛び込んだ。
その納屋の様な場所には既に数十名のジャマイカ人が地面に伏せて頭を保護していた。
私はジャマイカ人を盾にするべく、彼らよりさらに低く伏せた。
伏せながら、開きっぱなしの窓を見て(ここから一斉射撃されたら一巻の終わりだな)と、窓側に注意しながら隣のジャマイカ人より深く沈んだ。
その体制で、私はジーンズのポケットを確認し、なんとかタクシーで市街まで帰れる金を持っていることを確認した(完全に一人で帰国の算段である)。
すると、一瞬銃声が止んだ。
プレッシャーに我慢できなくなった小屋に居たジャマイカ人が外に飛び出した。
瞬間、「たたたたたたたたたたた~~~~~~」と、また銃声が鳴り響いた。
(ああ、死んだかな?)
と思っていると、ふと入り口に制服にヘルメットでマシンガンを抱えた「武装警察」が立っていた。
(誰か通報したのか?)
そして、一人づつ外に出るように指示された。
私は生まれて初めて「両手を手の後ろで組んで」武装警察の前を横切って外に出ようとした。
すると「オマエ、銃撃ったか?」と訊かれたので「ノー」と答えると、
マシンガンの先でお尻を叩かれて外に出された。
外に出ると、草っぱらに全員体育座りで並ばされていた。
私はその列の中に座った。
すると後ろから「おい」と声が聞こえたので振り返ると友人だった。
二人で目を合わせて「苦笑い」をした。
(コイツは死んだものと処理していたことはもちろん内緒だ)
武装警察が一人づつ声をかけ「日本人だけ」が解放された。
すると目の前の真っ黒なジャマイカ人が「オレノナマエハタロー、ニホンジンダ」と言って一緒にバックれようとしたが、もちろん拘束された。
会場の外に出ると、武装警察の一人が「オマエ、ブルース・リーに似てるな」と声をかけてきたが、反応する気力は全くなかった。
待たせてあったタクシーに戻ると、何人かの日本人も合流した。
なんとか街中に向かってタクシーは走り出した。
タクシーの中で物凄い静岡弁が聞こえてきたので「静岡人ですか?」と訊いたら「焼津出身でパパ・ユージって言います」と答えが返ってきた。
皆、何が起こったのか全く分からいまま、街中で解散した。
翌朝。
南国の鳥の声が鳴り響く朝の青空のホテルの中庭で、私と友人はホテルのブレックファストを食べながら、「昨日のアレ、ヤバ過ぎたな、、、」と言葉を交わした。
そのままキングストン空港へ向かうと、NY経由で日本に帰った。
それから三か月が経った。
ふと書店の音楽コーナーでレゲエ専門誌『レゲエ・マガジン』を手に取った。
そこの「ニュース」欄には
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キングストンの山奥のキラマンジャロのダンスで武装警察による大型手入れが行われた。
押収されたアイスピック70本、拳銃20丁、ガンジャ20Kg。
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と、「あの日の夜」についてのベタ記事が掲載されていた。
*1990年代半ばのジャロのダンス