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【究極の住まい論】 メキシコと貧困と人生の幸せ。

恐らく「バブル経済」が弾けたあとの建築についての考え方なのだが、
「社会に開く」とか「地域コミュニティとつながる」とかいう「口当たりの良い理念」を唱えて、開口部だらけのスケスケ住宅をよく目にする。

正にその考え方を完璧に反映した日本の某建築家先生が設計した住宅作品を、学会発表のために来日していたチェコ人建築家をアテンドして観に行ったことがあるのだが、現場について二人してその住宅作品を指さしながら爆笑した。

建築雑誌のグラビアで見ていた「理念を反映した建築作品」という建築家様のブランディング・イメージからかけ離れた、まるで動物園のパンダ舎のように道路に向けて全てが晒された住民の生活は、「人間(ヒト科)」という看板をつけてあげたくなるような代物であった。

そんな私にとって、住宅とは「子宮」である。

世知辛い世の中から隔離されて、ふーっとため息をついて、無垢な胎児の様に丸まって眠る場所である。

壁厚とか3mくらいのコンクリがよい。

そんな私が以前暮らしていたメキシコは「建築の国」である。

イタリアが「古典建築の歴史」の国ならば、
メキシコは「近代建築バラック」の国である。

すなわち「ペンキ塗った粗末なコンクリの家」を作らせたらメキシコは世界一なのである。

その最高峰は、もちろんルイス・バラガン先生。

バラガン先生の設計なされた住宅は、一切外に向かって開かれていない。

「住宅とは内省する場である」(by ルイス・バラガンが憑依した私・談)

お家の中はお外に晒すものではないのだ。

「ルイス・バラガン自邸」外観
「ルイス・バラガン自邸」の内観。目線の高さに外の世界とつながる窓がない
「ルイス・バラガン自邸」の玄関
「ルイス・バラガン自邸」黄色い光が差し込むニッチ
「ルイス・バラガン自邸」唯一の大開口部は内部の囲われた庭に向かってのみ開かれている
「ヒラルディ邸」byルイスバラガンの外観
「ヒラルディ邸」玄関ホールから食堂へむかう廊下
「ヒラルディ邸」の食堂。ここでご飯を食べます。
「ヒラルディ邸」中庭にでるドア


そんな「ペンキ大好き」メキシコの街並みは「近代建築バラック」で形作られている。

要するに「コンクリでつくった掘っ立て小屋」なのである。

さてさて、
20世紀前半にヨーロッパの建築家たちが取り組んだ「最小限度住宅」という課題は、困窮者を救うためであると同時に、社会主義的な思想をベースに「最小限度の空間と設備とコスト」で建築をつくり、市民に平等に供給するという理念をベースにしていた。

その理念を元に、ローコストによる大量生産と清潔な環境づくりのために「白い、簡素な、キューブ」という近代建築のデザイン・ヴォキャブラリーが生み出されたのである。

しかし、そのデザイン・ヴォキャブラリーがいつの間にかデザイン「フェティシズム」へと変わり、モダニズム建築は「資本主義の高級商品の一つ」へと寝返った。

そのきっかけの一つが、ヨーロッパ・モダニズムがアメリカに輸入された時の「インターナショナル・スタイル展」という「ブランディング」であった。

こうして、近代建築は「生活困窮者への住宅供給」から「ブルジョワジーのヴィラ」(by チェコの鬼才建築批評家カレル・タイゲ)と180°変節したのである。

「インターナショナル・スタイル展」1932年

その一方、現代メキシコにはそんな近代建築の理念から見捨てられた孤児のごとき「シンプル極まりない粗末なコンクリの箱」住宅が溢れ返っている。

さらにメキシコ人たちはその「粗末なコンクリ造の箱」をひたすらペンキで塗りたくるのである。

カラフルなのが貧民エリア(高級住宅街は白い)


そこには「作家性」や「デザイン」なんてものは無く、ただただペンキを塗りたくるという「行為」のみが純粋に存在している。

そんな「近代建築バラック」の織りなす風景を「支えて」いるのが「圧倒的な社会格差」なのである。

「貧困」が「最低限度の建築」を成り立たせているのである。

これが「近代建築」という理念がメキシコで到達したパラドックスである。

そしてその「ペンキ塗りのコンクリのバラック」が立ち並ぶと、そこには「営み」が生まれる。

そこには恣意的な「デザイン」というものは存在しない。

バーナード・ルドルフスキー著『建築家なしの建築』においては、
「前近代vs近代」の対立項という図式があったが、メキシコにはその二つが融合した「デザインなしの芳醇な近代都市風景」があるのだ。

バーナード・ルドルフスキー著『建築家なしの建築』


つまるところ、「社会格差」という「近代主義におけるネガティヴ要素」が近代都市の風景の豊かさを護っているというパラドックスである。

近代建築の博愛主義の「理念」を添加できないくらいに激しく貧乏であったが故に、「リアル貧乏」が研ぎ澄まされた果てに生まれた「貧困の美学」というわけだ。

そして、その「貧困の美学」は、現代の日本からはほぼ消えつつある。

日本における「生活困窮者の住宅」は、「白いキューブ」とはまったく逆の「困窮のイメージを隠蔽するためのキッチュな装飾」が主体となっている。

「石張り風」「塗り壁風」のコーティングがなされたサイディング外壁材、「漆喰風」なビニル壁紙、表面に「木の薄紙」を貼り付けた合板床材等々、貧相な構造を隠蔽する様にペタペタと「安手の素材イメージ」が貼り付けられているのである。
そしてそのイメージは「プロバンス風」「ブルックリン風」という、「ここではない何処か」なのだ。

現在の日本の住宅は大きく二極化されている、
「ブルジョアのための高級モダニズム風」か「生活貧窮者のための表層イメージのハリボテ」か、
である。

今や、大都市の駅前に立ち並ぶ高層商業コンプレックス・ビルも「貧相な鉄骨造に安手の高級風イメージが張り巡らされた」ものばかりであり、
その内部に立ち並ぶ「ブランド」商品も、その高級風イメージによって生活困窮者にいっ時の夢を見させる「ドラッグ」である。

そして「核家族一家で軽自動車に乗って郊外大型モールで買い物してフードコートで食事してハウスメーカーの家を借金して買う」人たちは、もちろん「現代の生活困窮者」なのである。

とはいえ、一度覚えた高度消費社会での「商品フェティシズム」というドラッグの中毒症状からリハビリすることは困難だ。
という筆者ですら「足抜け」は難しい。

引き換え、メキシコの「社会格差」は、当の本人たちが特にそれを解消する気が全くないのである。

その暮らしっぷりを見ていると、
そもそも「社会格差」って、そもそもネガティヴ要素なのだろうか?という問いすら生まれる。

下町の市場で野菜とお肉を買って、週末は親兄弟親戚恋人が集まって音楽を爆音かけながらお喋りとともに楽しい食事をする。お供はセルベッサ(ビール)とテキーラで、興が乗ったらみんなで踊り出す。

下町エリア(危ないですよ)
下町エリアの屋台
生き生きとしたストリート
ストリートに溢れ出す人々


もう十分に過ぎるくらいに幸せな光景なのである。
それが建築に現れている。

「ペンキ塗りの粗末なコンクリの箱」が「生きる喜び」き満ちているのだ。

何か社会生活に問題があると言っても、
せいぜい時々麻薬カルテルが機関銃ぶっ放したり、
夕方以降に一人で車に乗ってると確実に強盗に遭うくらいである。

その意味で、建築とはやはり「社会を反映」しているのである。

風景に「萌える」というのはこういうことだろう。




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