20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第2話
三多摩地区の美術大学に通う前から、
私は静岡の田舎の高校生の時から、地元の幼馴染と一緒に、JB、アイズレー・ブラザース、Pファンク、そしてレゲエ一般を聴いて、落語を愛好していた。
高校3年の時の代ゼミの夏季講習で上京し、毎朝滞在先の親戚の家を出るとそのまま都内の寄席を廻った。
お気に入りは、今は無き池袋演劇場だった。
はたまた、上記の幼馴染と高速バスで上京し、スティールパルスのライブに行ったりもした。
ライブ翌日には渋谷のタワーレコードに寄って、O-FUNKやレゲエのアナログ盤を漁ってから高速バスで静岡に帰った。
しかし、1980年代後半の東京の美術大学の私の学科では私はマイノリティだった。
当時の私の学科の音楽の主流は、いわゆる「オルタナティブ」と呼ばれる、「ノイズ」や「インダストリアル」、パンクの変形した「ポジティブ・パンク」等であり、美術については皆んな「ヨーゼフ・ボイス」や「ナム・ジュン・パイク」について語るのが「イケている」とされていた。
そんな環境の中、私は密かに、その後に武蔵美に行った幼馴染みと「ZAPP ft. Roger」を渋谷の「LIVE INN」に観に行ったり(※1)、新木場の「若竹」(※2)まで「立川談志」や上野に「古今亭志ん朝」の高座を観に行っていた
かの「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」(※3)にも、その幼馴染と一緒に大学1年生の時から参加したいた。
大学には「そんな趣味の良い連中」は居ないものと思っていた。
つまり、文化的な二重生活を送っていたのであった。
さて、
1989年の「まるで毎日爆弾が落ちているような」バブルの喧騒真っ最中の日本の春の人里離れた三多摩の山奥の美術大学の学食。
コヤマと、ハルノの「モーホ暴れん坊将軍」の話をして以来、「その後どうよ?」などと学内で会えば話をするようになっていた。
この日は旧校舎の方の学食で彼らと落ち合った。
学食の長テーブルを占領して皆でダベっていると、ふと「ボブ・マーレイ」の話題になり、コヤマが「ボブ、いいよね〜!」と私を指差しながら唸った。
横に座っていたハルノは「ふ〜ん、、」といった反応であった。
刹那、ハルノが「じゃあみんなで「69(ろっきゅー)」(※4)行こうぜ」と言った。
我々3人は「いいねー!」と、すぐに話がまとまった。
私にとっては、彼らと学外で遊ぶのは初めてであった。
夜の10時に新宿で待ち合わせた我々は、
まず新宿二丁目の「松屋」に駆け込んで牛丼を食べた。
「腹が減っては戦は出来ぬ」とばかりに。
「やっぱり吉野家より松屋だよねー!」と大盛りの牛丼に卵をかけながら我々は話した(筆者註:現在の美食キャラクー設定からは全く考えられないエピソードである)。
松屋のウインドウの外には、ネオンきらめく新宿二丁目の街が見える。
我々は腹を満たすと、いよいよ新宿二丁目のレゲエ・クラブ「69」へと向かった
二丁目の路地の怪しげな階段を地下に降りていくと重い扉があり、そこを開けるやいやな爆音で流れるレゲエが耳に飛び込んでくる。
照明は真っ暗で、店内には全く装飾がない。
バブル経済絶頂の時代にありながら、
その全くの「無装飾」感に我々はシビレた。
踊っている客も、誰の目も気にせずにひたすらレゲエのサウンドに没頭していた。
爆音のレゲエを浴びながら、まだその当時は「知る人ぞ知る」この場所で踊りまくった、バーカウンターで買ったプラカップのラムコークを片手に。
もちろん禁煙などとは程遠く、時折ミラーボールの光が立ち上る紫煙にキラキラと反射していた。
真夜中をとっくに過ぎるころまで爆音レゲエで踊り、我々は「69」を後にした。
店の目の前には飲食ビルがあり、ハルノは「ちっとトイレ行ってくるわ」とビルの中に消えた。
3分ほど経って店の外に居ると、ハルノが興奮気味に小走りで戻ってきた。
「いや~、オレがションベンしてたらよお、隣でしてたオッサンがオレの股間を覗き込んで「いい!?いい!?」って訊いてくるんだよ!」
「なにが「いい!?いい!?」だよ!」と私とコヤマに訴えてきた。
私とコヤマは顔を合わせて「出たよ!モーホ暴れん坊将軍!」とゲラゲラ笑った。
「で、これからどうする?」と私が訊くと。
「いや、いいジャズ屋があるんだけど」とハルノが言った。
それが、あの数々の伝説に彩られたジャズ・バー、
「バードランド(※5)」であった。
我々は「69」の前の路地から新宿御苑方向へ歩を進めた。
「ここだよ」とハルノが言った古びた雑居ビルの入り口には、地下へ行く階段と、白く光る立て看板があった。
「BIRDLAND」
真っ白な看板に黒文字でそれだけ書かれていた。
我々はその年季の入った看板を横目に、階段を降りると地下の真っ黒な扉を開けた。
扉の向こう側は完全に「異界」であった。
向かって左側にカウンターがあり、右側にテーブル席2席ほどあった。
全部で20畳ほどの小さな空間だ。
そして店中は真っ黒に塗装され、その真っ黒い壁という壁に「古い掛け時計」が所狭しと掛かっていた。
カウンターの奥には「坊主頭」のママさんが居た。
「いらっしゃいませ」とママさんは我々に向かって言った。
ママの名前は「ツヤさん」と言った。
歳の頃なら四十歳くらいだろうか。
右奥のテーブルには、下を向いて一人でブツブツ喋っている男がいた。
我々の後ろでは、2丁目での仕事が引けたオネエさんが一人で飲んでいた。
ハルノが一言、「どうよ?バードランド」と小声で訊いてきた。
「ヤバいよ~!」と私とコヤマは興奮しながらも小声で返事をした。
この空間は、完全に1970年代で時間が止まっていた。
東京の、新宿の、時空が歪んだブラックホールに彷徨い込んだようであった。
我々は興奮と緊張の絶頂にあった。
そしたら、坊主頭のツヤさんが思ったより親し気な口調で
「何呑みます?」と訊いてきたので、我々は瓶ビールを頼んだ。
瓶ビールとグラスと共に「おしんこ」が出てきた。
その「おしんこ」を一口食べるや否や、「うお~!滅茶苦茶美味め~!」と我々は(小声で)絶叫した。
「こんな美味いおしんこ、食べたことねえ!」と私はさらに小声で叫んだ。
我々の大袈裟極まりないリアクションにツヤさんは静かに微笑んでいた。
「お兄さんたち、リクエストあったら言ってね」とツヤさんに言われたので、我々はリクエストしてみることにした。
しばらく三人で協議した結果、「ビル・エヴァンス」をリクエストすることに決めた、この深夜の時間帯の、新宿二丁の地下深くのこのお店に大変に似合っていると思ったからだ。
「すみません、エヴァンス、お願いしていいですか?」と私が言った。
その瞬間、後ろに居た仕事明けのオネエさんがおもむろに口を開いた、
「あら~!エヴァンス!アンタたち、いい趣味してるわね~!」とオネエさんは上機嫌で話し出した。
その間、ツヤさんは『ワルツ・フォー・デビー』のレコードをターンテーブルに乗せた。
「ああ、やっぱいいわね~! アタシねえ、エヴァンスには色々(思い出が)あるのよ~!」
とオネエさんは宙を見上げながら胸の前で手を組んでうっとりと悶絶していた。
(その思い出話、聞きたくね~!)と、我々は笑いを堪えながらお互いの顔を見合わせた。
「ちとトイレ行ってくるわ」
私は笑いが堪えきれなくなってトイレに逃げ込んだ。
トイレに入ると、真正面の壁には「セロニアス・モンク」の白黒のポスターが張ってあった。
私は身を捩らせながらテーブルに戻り、二人に小声で叫んだ。
「トイレ、ヤバい!」
ハルノはニヤニヤしながら言った「だろ?」
「ちょっと、オレも見てくるわ!」とコヤマが言うやトイレに向かい、そして戻ってきた。
「モンク、ヤバいよね~!!!」と三人で小声で身を捩らせながら叫んだ。
その晩は、当然のように始発までそこで過ごした。
以来、「ちょっと今夜、”バーディ”どうよ?」が我々の合言葉になったのである。
(つづく)
脚註:
※1. 「ミッドナイト・ソウル・パーティー」と銘打たれたレギュラー・イベント。ZAPPだけでなく、SOSバンドやバーケイズがやって来ては深夜の渋谷に本場のファンクの雨を降らせていた。
※2. 「若竹」。故・三遊亭円楽師匠が設立した寄席。
当時の落語界では「若竹と円楽師匠の借金ネタ」が流行っていた。
※3.「レゲエ・ジャパン・スプラッシュ」。ジャマイカの大レゲエ・フェスである「サンスプラッシュ」を日本に持ち込んだ。
毎年夏によみうりランドイーストの野外ステージで開催され、当時のジャマイカのトップ・アーティストと生バンドがこぞって参加した。
※4.「クラブ69」。新宿二丁目にあったJAH K・S・K氏主宰の日本におけるレゲエ・クラブの嚆矢。
※5.「バードランド」。「つやさん」という坊主頭のママが主宰する、新宿二丁目にあった伝説のジャズ・バー。
評論家・平岡正明の著書『芸能の秘蹟』に、この店についての言及がある。
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