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*18 Do or Die

 人様に迷惑を掛けない様に、という忠告は子供の頃からあった。私が直接、耳に胼胝たこが出来る程口うるさく言われたわけではないが、それでも暗黙の了解の如く、世のことわりの如く身近にある警告であった。私はそれを、暴力や嘘や卑怯の類を指しているものだと考えていた。あるいは悪意を持って人の感情を逆なでする行為だと考えていた。友人知人を含めた余所よそ様に対して、それらの非人情を行う事こそ迷惑行為であると解釈した時、なるべくそういう行いを慎みながら、―時として迷惑を掛けて仕舞った事も無論あるが―、これまで生きて来たつもりでいた。
 
 しかながら、現在の私はと言えば周囲に対して大いに迷惑を掛けている自覚がある。自覚、と言うよりも他者の言動や表情を通して気付きを得た他覚であるから、私が感じるよりも周囲の人間は強く迷惑がっているんだろうという気が時折起こる。暴力も嘘も卑怯もやらないが、その分定職にも就かず己の理想を叶えんと努める自己中心的な姿勢が何より迷惑なんだろうと居た堪れなくなる。地域の行事にも顔を出さず、雪の片付けにも従事せず、やれふるさと納税だ、やれカフェだイベントだと、パンを作って売る事だけに時間を割いていれば、好きな事しかしないならず者だと思われて仕方ない。
 
 先日友人が私に向かって冗談の積で口にした「自分のやりたい事しかやらない奴だ」という一言が冗談と解っていながらちくちくと心臓を刺す。身近な周囲を見渡すと皆、確かに私をそういう奴だと思っている様に見える。それでも私がこうしてやれているから有難いと思う反面、大変申し訳ない気持ちにもなる。それもあって身を置く環境は生まれてこの方ずっとアウェーである様に思う。ホームを感じた試しは一度と無かった。まあ然し例の如く、そんな人間が一人くらいいても世界に影響は無かろうと強がってみるが、それと同時にいっそ居なくなる方が世の為人の為なんだろうと思う。そうして何時居なくなっても未練も何も無いと思うと、それじゃあ居る内は折角だからやりたい事をやろうという所へ思考が帰って来る。明日居なくなる積だから最後の日である今日くらいは我慢している場合ではないと思ってしまう。だから矢ッ張り迷惑になるんだろう。仕方が無いと諦める。私はそういう風なんだろう。
 
 
 今週から駅構内でプレッツェルの販売が始まった。立体駐車場に車を停めて、荷台から番重を台車の上に乗せてがらがらと駅構内を目指す。駐車場のエレベーターに乗り込む、がらがらと台車を押している内に荷物が落ちそうになる、この感じが大変に懐かしかった。駅に移動してまたエレベーターに乗る。今度は上へ行く。二階に尽いてまたがらがらと台車を押して行くと、視線の先にちらほらと外国人客の姿が認められた。多分私はその時にやりと笑っていたかも知れない。ちょうど戦いに出向いた主人公が手強い敵に対峙した時ににやりとするあれだろうと思う。
 
 予定の場所へ着くと、既に一台の屋台が設置してあった。去年は同じ場所にテーブルを広げていたんだと思うとこれだけで十分立派であった。そこへ一度荷物を置いて、今度はエスカレーターを下って観光案内所へ挨拶をしに出向いた。今日からよろしくお願いしますと会釈をすると、職員の方でも同様に宜しくお願いしますと言った。それで契約内容の最終確認をすると、さっき下って来たエスカレーターを今度は上って、屋台の準備を始めた。
 
 
 「あら、これはどうも」
 屋台の準備の手を止め顔を上げると、清掃員のおじさんが近付いて来た。この男とは去年の駅販売中に幾らか懇意になった。それからまた他の清掃員とも顔を合わせて話した。そればかりか昨年中に幾らか言葉を交わした駅で働く人達と挨拶をする事が今週多かったから、その都度「今年も御邪魔します」と御道化た様に言った。

 そうして六日月曜日の九時半から、私のプレッツェルスタンドは開店した。極寒の駅構内は先日の軽井沢を彷彿とさせた。ただでさえ寒さが体を刺すのに加えて、拙い英語でのコミュニケーションや「あいつはあんな所で何をやっているんだ」という視線がひりひりとして興奮した。おまけにこの商売がどちらに転ぶかも予想が付かない。私の算段では上手くいくと思っているが、実際客数がどうで、その内何人の人がプレッツェルに興味を示し、何人の人が買って行ってくれるかと言うのは矢ッ張り分からない。私はただ信じて待つのみである。
 
 
 幾つかの御客を回想してみる。
 
 十代後半くらいの金髪ブロンドの少女がプレッツェルを買ってくれた。そうして直ぐに袋を開けて齧ると、私に向かって自分の腹をさすりながら「美味しい」と片言の日本語で伝えてくれた。「ありがとう」と「こんにちは」を日本語で言う御客は多かったが、「美味しい」は新鮮で思わず喜んだ。
 
 また別の少女は一度プレッツェルを買って行くと、暫くして「美味しかったから」と追加で二つまた買って行ってくれた。小銭をじゃらじゃらと探している間に「パン職人に成る為にドイツで八年修行して来たんだ」と英語で伝えると、「それはすごいわね」と言って、その後さらに家族を引き連れて来てくれたが、家族はまあ要らないとそのまま引き返して行った。少女はやや申し訳なさそうに此方を見たが、私はまあまあと宥める様に送り返した。
 
 私のインスタグラムを見ていると伝えてくれた人も幾つかいた。一人は「これから札幌に帰る」という日本人であった。聞けば地元はここなんだそうだが、駅で私のプレッツェルを見付けたのは偶然だと言って、それで幾つか買って新幹線の方へ向かって行った。それにしても札幌に私を知ってくれている人がいるというのも不思議な感覚である。
 
 また、背筋の伸びた紳士的な外国人男性が近付いて来た時に、「ハイ」と挨拶をしたら日本語が帰って来た時があった。のみならずそれから日本語で流暢にあれこれ話し始めたかと思うと、「GENCOSさんですね、インスタフォローしています」と言われて驚いた。道の駅などでも多間たまに買っていますと言うその男は、聞けばこの辺に住んでいるらしかった。駅にいると色々な人と出会う。
 
 プレッツェルを見付けるのは大人よりも子供が早い。「プレッツェルだ!プレッツェルがある!」「ああ、私はプレッツェルが大好きなのよ!」という嬉々とした英文が案外聞こえて来て嬉しい。その為にここでやって居るんだと、その都度確認が出来る。
 
 子供がプレッツェルを強請ねだって、親が買ってやる。それを私の目の届く所で食べ始めた子供と目があったから、親指を立てて「美味しい?」と顔で問い掛けると、同じく親指を立てて「美味しい」と返事があった事もあった。
 
 無論、子供や女性ばかりでない。成人男性でも青年でも、買って行ってくれる者はいる。或る人はチーズプレッツェルを買って行ってくれたかと思うと、暫くして戻って来て「もう一個」とぼそり呟きながら二つ目のチーズプレッツェルを買って行くなどした。
 
 
 そうして金曜日の日は到頭とうとう完売を記録した。今週実際に始めてみて、私の想定よりも人の流れが少ない事が分かったが、それでも昨年、一日で売り切れるか売り切れないかくらいの数、即ち三時間分の場所代を稼げるか稼げないかくらいの数の倍量を用意しても金曜日は売り切れた。
 
 連日、屋台の装飾にも工夫を足しながら、些細な事の代表で言えば立て看板の向きを都度ゝゝつどつど変えたりしながら、極寒の駅構内で立っている。誰の為かと言えば、無論私の利益を抜きには語れぬが、それでも矢張り外国人客の、券売機や電車を待つ間の暇潰しにでもなればと思う。それで喜んで貰えた時には私の方でも喜ばしい。目の前の人が喜ぶ事が私の居る意義にもなる。暴力も嘘も卑怯も、小手先だけの戦略も利己的な思考も無い、人間対人間の真っ当な商売を、これでも私はしている積である。それが迷惑者の脆弱な正義である。


 
 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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