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思い出のスイミングスクール(まえがき~幼少時代)


まえがき

2024年11月末日、私が実際に泳ぎを教わり、私が誰かに何かを教える事を教わり、大切な仲間との怠惰と酔狂と情熱を育む大切さを教わり、身近な人間が死ぬことを教わり、大人になる事を教わった地元の小さなスイミングスクールが30年の歴史に幕を降ろした。

閉館の知らせを、私が管理しているニュースメディアにて発信したところ、多くの地元の方からの悲しみのコメントが投稿された。その1か月後、閉館1か月前に、私のLINEにグループが形成された。

スイミングスクールでバイトをした歴代のアルバイトたちがグループに参加しているLINEグループで、ありがとうの会という名前が付いていた。

まだなんの投稿もされていないが、おおよその予想はついている。歴代のアルバイトを集めて飲み会をしようという事なのだろう。このグループを形成した、いわゆる発起人については予想どころか予測さえついてしまう。それが私にとっての大切な仲間の1人なのだから。こうした集まりの中心には、いつだって彼らの姿があったのだから。

このグループの形成目的が飲み会だと仮定したとして、今の私の心境はと言えば、その飲み会にもグループにも参加はしたくない。私からすればこのスイミングスクールは、右も左もわからずにただがむしゃらに自分を表現したいと躍起になっていた若かりし私のたったひと夏の鮮烈な思い出だけなのだ。

これから閉館するこのスイミングスクールからすれば私なぞ、長い長い歴史のうちの一瞬のわき役、はみ出し者に過ぎやしない。私には私の思い出があって、その思い出は盟友だった彼らよりも圧倒的に短く、圧倒的にギラギラしているのだと思う。だからこそ私は、私の思い出だけを大切にして他の誰かとその思い出を語り合いたいとはどうしても思えない。私にとって最も濃度が高く、取り柄も特徴も見当たらない私の人生の中で起こった数少ない最たる自己表現を、そう易々と人に語る気にはまだなれないのだ。

これがあと10年あとの事ならば、あるいはもしかしたら、時間は違えど同じ空間にいた仲間たちと和気あいあいと楽しく会話することで、自分の思い出を普遍的な出来事として昇華することが出来るのかもしれないが。

このグループを形成した中心人物に対して思うことは何もない。むしろ彼はとても立派な人だとさえ思っていて、今でもなお尊敬している。あの場所で過ごした同じ境遇を持つ人々にターニングポイントを用意する役を自ら担うなんて、なかなか出来る事ではない。恐らく彼は私と同じ、いや私以上に、このスイミングスクールに恩義と愛着を感じているのだろう。もっといえば、あの時一生懸命アルバイトに励んでいたかつての仲間たちは、みな一様に高い志を育んでもらったこの場所に感謝をしているのだと思う。

私たちの深くて熱い絆はあの場所にて、それぞれの物語があったからこそ成り立った特殊で特別なものだったように思う。卒業してから10年以上が経過した今、それでも何かの折に必ずこうして集まりが発生するのは、彼らと私が様々な場所で醸造した圧倒的に居心地の良い空間を認識していたからに他ならない。

今、私は私であの時の思い出を私なりに1つの形にまとめようとしている。懐かしさを語り合うことが一つの表現なのだとして、それは彼らとグループラインに集った歴代の素晴らしい戦士たちに任せることにしよう。私は私で、あの時確かに存在した暑苦しくてまぶしかったコミュニティのルールを遵守して、今なお1人で消毒臭いカピカピ頭の泥臭い思い出に決着をつけることにする。個の技術を洗礼させてこそ、そこに没入してこそ、多くの人に思いや力を伝播することが出来る。そんな根も葉もない話し合いに明け暮れた、あの時白熱した話題を信じて。

幼少~少年期:生徒として

私がそのスイミングスクールに通いだしたのは4歳か5歳の頃だったと記憶している。2、3歳の頃は別のスイミングスクールに通っていたのだが、引っ越しを機にスイミングスクールも転校した。私が水泳をやることになったのは母の意向だったと思う。母は自分に子どもが出来たら水泳を習わせることを決めていたそうだ。自身が学生の時、近所にいた少し年上の男性が川でおぼれている人を助けようとして亡くなったというエピソードがあって、自分の子供には水泳を習わせようと思ったそうだ。

当時の私は引っ込み思案な生き物だった。子供とは大体そんなものなのかもしれないが、今の自分からは想像もつかないくらいに知らない事象に怯えていた。自分の世界はとても狭いもので、すべてが外の知らない場所のように映っていたのだろう。知らない人、知らないもの、知らない何かがうごめいていることが許せなくて、いつも自分の小さな世界に還りたいと思っていた。しかし、それをうまく表明することが出来なくて、結局よく泣いていたように思う。

思い返せば、少年時代は社会と上手く溶け合うことが出来なくて、嘘ばかりついていた。今思えば必死に普通の人になろうとして、結果的に失敗ばかりしていたような気がする。当時の失敗談は、今になっても恥ずかしくて話すことが出来ない。

そんな私が最初に世界を拡張することが出来たのが転校したスイミングスクールだった。母が言うには、私が水に対して恐怖を抱かず、このスイミングスクールに通うことに対して最小限の抵抗で済ますことができたのは、当時私の事を指導してくれたコーチがすごく良かったからだそうだ。

朧ながら私にもその記憶は残っている。あれだけ世界に怯え切っていた私が、このスイミングスクールに通うことには抵抗した覚えがない。もちろん母が見学室から覗いていたという安心感もあったと思うが、私自身が全幅の信頼を寄せてコーチに寄りかかっていたのだ。

私はのちにこのスイミングスクールでコーチとなるのだが、コーチをやらないか?と誘われた時、すぐにお願いしますという返答をしたのは、その当時スイミングコーチという私からすればブラックボックスに見えた特別な世界へのアクセス権を手に入れることが出来たという好奇心や優越感と同時に、深層心理に小さい頃のすべての知らない世界に怯え切っていた私の世界を拡張してくれたその当時のコーチに対するあこがれの念もあったのかもしれない。

そう考えると、私がアルバイト時代に采配されていた幼稚園コースや幼少コースの担当は、実は私の性分や適性を会社は良く理解してくれていたのかもしれないなと今は思う。当時はもっと色々なコースを担当したいと思っていて、そのコースに対して嫌気がさしていた時期もあったのだが、今となってはすごく貴重な、そして私のその後の人生における方針の1つを育むための大切な時間だったのだと感じている。

私の記憶では、そのスイミングスクールはよく私の事を褒めてくれた。叱られた記憶はほとんどないが、コース全体で怒られて、レッスンがストップすることが多々あったのも良い思い出だ。思い返せば、あの時のコーチは大変だったと思う。私がアルバイトとして参加した時よりも、生徒の人数は圧倒的に多かった。10人~15人の生徒を1コースで回すのにヒーヒー言っていたものだが、私が子供のころはそんなコースはザラにあった。態度に出すこともなく、生徒1人1人にきちんと向き合っていたという印象があるのだから、相当達観した人間性を持つコーチが沢山いたのだと思えてならない。

1か月に一度昇級テストがあったのだが、私は基本毎月合格していた。当時は合格するたびにもらえる賞状とワッペンが嬉しかった。これをもらうと母とコーチがその度に私を激賞してくれた。小さかった私にはその褒め方が本気であることが伝わってくるのが嬉しかった。昇級すればその度にコースが変わるから、教えてもらうコーチも1か月単位で変わる。合格証である賞状の名前の欄は手書きだったのだが、名前の字の形が毎回変わるのが子どもながらによく分かった。テストをしたコーチが毎回名前を書いてくれたのだろう。当時はそれを言語化することが出来なかったのだが、私はきっとその時間に嬉しさを感じていたのだと思う。それは、自分がコーチをやっていた時の素直な気持ちが理解させてくれた。

自分が教えた生徒が自分の力で与えられた基準をクリアしたとき、名前を沢山書く苦労は嬉しさに変わっていたからだ。それは自分の指導者としての力量を感じられるからだけではなく、生徒の能力を生徒自身が向上させたと実感した時に見せる、テストで全力で出しやり切った時の清々しいパッとひらめいたときのような顔をした時の充実感に他ならない。それがまるで自分のことように嬉しかったのだ。

私が小学校低学年の頃は90年代の後半だった。00年代、インターネットの普及と共にルールが厳しくなり、だんだんと人々が雁字搦めになっていく直前の良くも悪くも自由を謳歌することが出来た最後の時代。このスイミングスクールでは、さすがに体罰は無かったが、過度ないじりや怒号の飛び交いはいくつかあった。

全盛の人々からすれば「そんな短い時間で何が言えるんだい・・・」と思われるかもしれないが、一応そんな著作権フリーみたいな時代を少しの時間だけでも体験した私も、そんな時代の被害者であり、同時にそんな緩い時代の羨ましさを感じられる人種であると思っている。それはスイミングスクールのコーチという指導者の立場からすれば表現の幅が広かったという事であって、私もそんな時代に指導者の立場に立ち、もっと色々なアプローチで子供たちと触れ合えたら、それはとても有意義で楽しい時間を過ごすことが出来たかもしれないと思っている。

ただ、私は人をいじってグループの熱気を高めるようなことはしなかっただろう。現にコーチ時代、時代的にももうそんな空気づくりは認められていなかったが、私はそういうアプローチを意図的に控えるようにかなり配慮してやっていた。

それはこのスイミングに生徒として通っていた頃の原体験がそうさせていたと思う。私の身に起こったエピソードとして、私が10級だった頃、小学3年生の頃に教えてもらっていたコーチとの話だ。

先に10級について話しておこう。このスイミングスクールには18級~1級までのランクが存在した。それぞれの級の条件を満たすことで次の級に進級することができ、条件を満たしたか否かを確認するために月末に1度テストが行われていた。賞状やワッペンはこの級制度の証明証のようなもので、合格を記す賞状の手書きの名前欄とワッペンこそが私のモチベーションだったのだ。

そのコーチは研修を終えたばかりの新米コーチだったと記憶している。週に2日、火曜日と金曜日にスイミングスクールに通っていた私が見かけたことのないコーチだったので、恐らく1人でコースを持ち始めたくらいのタイミングだったと思っている。

そのコーチはレッスン中、執拗に私をいじってきた。内容は体形や容姿を馬鹿にするというものだった。小学3年生の私は、そのいじりをうまく切り抜けることが出来なかった。上手に返したり、笑って終わらせれることが出来れば良かったのかもしれないが、9歳にそんな技術はない。

どんな言葉だったのかは定かではない。ただ、やみくもに容姿や体形を馬鹿にしていたわけではないと記憶している。

「小栗君はこんなに太っていても泳ぎはとてもきれいです」といった感じで、他の生徒が適度に笑える冗談みたいなものだった気がする。だた私はそれを許すことが出来なかった。というのも、同じコースには同じ小学校に通う友人や、なんなら当時私が密かに好意を抱いていた女の子がいたのだ。9歳の少年だった私は、その子や友達の前で恥をかかされ、メンツとプライドを潰された。

しまいにはブチギレて、レッスン中にプールから上がり、1人で勝手に更衣室に上がっていった。今となっては笑い話だが、あの時プールから上がった冷たい体のおかげで目に溜まった涙の妙な温かさが際立っていた感覚を今でも覚えている。

その後どうなかったはあまり覚えていないのだが、多分何事もなかったかのように次の週は普通にレッスンに行ったのだと思う。私はこのことを親に話したりはしてない。コーチは更衣室に戻ろうとした私を呼び止めて必死に謝っていた気がするが、その後に特別な話し合いの場を設けたようなことは無かったと記憶している。その上で、その後もそのコーチとのレッスンは普通に続いていたし、なんなら1か月の時間を経て、険悪な関係からスタートしたそのコーチとは、最終的にすごく仲良くなった。最後はそのコーチから適度にいじられても、全然問題なく返答することが出来たし、それによってこのコースの一体感は強くて太いものになったと思う。

同じコースで練習を共にしていたとはいえ、同い年くらいの小学生がテストで頑張っている姿を見て、頑張れと声援を送るなんて現象はなかなか生まれないと思うが、このコースでは実際にそんな現象が起こっていた。その光景を目の当たりにして、私は別の形で目の周りが熱くなるのを感じたモノだった。

今やったら大問題になる話なのだろうが、良い言い方をすればコーチの目線が我々子どもと同じ目線だったという事だと今は思う。私はこのスイミングスクールで、当時大学生だった大人子どものようなコーチたちから様々な見識や目線を教わった。この件だって、今の私からすれば大切な良い思い出だ。今でもこうして覚えているわけで、その時の体験が私がアルバイトとしてコーチになった時に1つの指針を作るきっかけになっているのだから、こういう体験は人生を分厚くするための壁として貴重な体験だったのだと感じている。

大人になるといじる事のコスパの良さに気づく。私もついつい気心知れた友人とアルコールがあれば、目の前にいる友達をいじることだってある。いじるとは関係性が前提のテクニックなのだと思う。もしかしたら私のいじりはドぎつく高圧的なものなのかもしれないとも思う。芸人ではないのだから、そこに上質なテクニックがあるとは言えないだろう。それでも私は、今まで人をいじって喧嘩になったことは一度もない。それは、関係性が薄かったりみえないと思った人をいじることはまずないからだ。立場や条件をわきまえる事だけは忘れないように注意するし、私は今この瞬間の人柄でしか人の性格を判断しない。その人の過去の性格や未来予測上の性格なんてものは全く考慮しない。当然気分もテンションもその瞬間でしか判断しない。いじる時は条件が満たされたうえで人を特定しないようにしている。それは、このエピソードから学んだ僕なりのいじり論であると言っていもいいのだろう。

よく過去の性格や過去の体験から性格を判断する人を見かけるが、そういう人は他者にも自分にも可能性を感じられていないのだろうと思う。環境が変われば人は変わるのだから、どれだけ関係性が深くても今この瞬間のその人と全力でぶつかった方が人間関係はより深いものになっていくと思う。過去の統計から上限を決めてしまうと、他者との関係の可能性を潰してしまいかねない。それは付き合える人間の数を限定してしまうことにもなるだろう。

私はこのスイミングスクールで有象無象の特殊な人間関係を構築することが出来た。当然、そのスイミングスクールには同じ小学校に通っていない人間もいたわけで、それは当時の狭かった私の世界を一気に拡張することになった。会話の内容も文化も違う人々と話をすることで、私の中の面白いという感覚はより明確で鋭い形になっていたように思う。あの時仲良くしていた人間との付き合いは今はもうないが、その時の関係は今でも大きな財産になっていると思うし、そういう空気を率先して作ってくれていた世間から見れば大人子どもなコーチだからこそ出来たウルトラCだったのだと思う。あの時の私には当時のコーチが立派な大人に見えていて尊敬のまなざしを持っていたし、肌でしか感じられなかったそういった様々な仕掛けがDNAにまで刻まれているのを細胞レベルで理解していて、それを作っている魔法使いのようにも感じていたのかもしれない。でなければ、音楽にドップリで相変わらず太っていた大学生の私がコーチやってみないの一言に対して「やらせてください」と即答したりはしなかったように思う。

この章の最後には、そんな私をコーチに誘ってくれた特別なコーチと生徒時代の私のエピソードについて書いておく。

名前を出すつもりはない。Hコーチとだけしておこう。

そのコーチは、私の記憶では8級の頃に初めてお世話になったはずだ。8級からは泳ぎのきれいさというよりも純粋な距離を泳ぎ切ることが求められる。つまり、技術よりも力の使い方と体力が求められるようになるわけだ。確か小学4年生の時だったと思う。ちなみに級があがればあがるほど進級は難しくなる。コーチの目線もシビアなものになっていく。進級するのに2か月や3か月かかることもある。このスイミングスクールでは10級と9級が鬼門だった。11級までは水慣れと4泳法のうちの2つクロールと背泳ぎを徹底的にやる。水慣れやクロール、背泳ぎは動作が比較的単純だ。だからある程度要領を掴むことが出来た時点でスムーズに合格することが出来る。ところが、10級と9級では平泳ぎとバタフライという、それまで経験してこなかった動きを水の中で行う事になる。その動作は初めて行う人間には少々複雑なものだと思う。ましてや子どもだ。まだ運動の仕組みや意味をうまく理解していないタイミングでもある。平泳ぎもバタフライも、水中での1つ1つの動作がきれいに連動していないと前に進んでいかない。指導という視点からみると、子どもに教えていく場合はとにかく形を覚えて、クセを付けるのが確実だ。だから恐らくどのスイミングスクールでも、平泳ぎとバタフライのセクションは比較的時間をかけて行うはずだ。ここをないがしろにしてしまうと、泳ぎに変なクセが付いてしまって、その後距離を泳ぐことが出来なくなってしまう。

私もこの10級と9級は時間がかかったと記憶している。もともと運動が得意なタイプではないから、ここはとても苦労した印象がある。少年時代の私は根気よくコツコツとなんてタイプでもなかったから、この段階は非常にモヤモヤしていたのだと思う。しかしそれでも、スイミングに通うことを嫌だとは思わなかった気がしている。多分だが、それなりに出来ないという状況を楽しんでもいたのだろう。そういう感覚があると1つ1つの小さな出来たをより強く実感することが出来たりもする。この体験は、間違いなく私のコーチ時代にも、その後サラリーマンとしてマネジメントを担当して部下やチームを持った時にも活きていたはずだ。

このスイミングの級制度はあるアルバイトが考案したという噂を聞いた事がある。そのコーチとは、私のバタフライを教えてくれたコーチでもあった。この制度考案の話が本当かどうかは分からない。あくまでも噂だ。しかし、この噂が本当だとしたらかなり凄いことだと思う。というのも、このスイミングスクールの級制度がかなり理にかなったものだからだ。相当な工夫が凝らされた、無駄のないセクションで組まれている。もちろん0からではなく、ベースはどこか別のスイミングスクールにあるのだろうが、絶妙な緩急というか緩さの中に確実に上手くなるための仕組みが盛り込まれている。それは町の小さなスイミングスクールに連れてくるさまざまなニーズを持った方々を幅広く受け入れることが出来る制度になっていたと思う。このスイミングスクールに級制度が出来て以来、今日までほとんど改正されることはなかったというそのとてつもない強度が、この級制度の完璧さを物語っていると言えるだろう。これを一介のアルバイトが考えたのだとしたら、そのコーチは相当な才能と水泳に対する深い理解力を持っていたとしか言いようがない。

そんな級制度に独自の理解と解釈を加え、さらに練り上げたものを指導に反映し、私のクロールのレベルを上げてくれたのがHコーチだった。まずこのコーチは私の母のお気に入りだった。当時は大学生だったのだが、とにかくハンサムでガタイも良かった。その上でレッスンはとにかく機敏。スムーズかつ適切なアドバイスで、声も非常に大きくて良く通っていた。

母は「Hコーチは久しぶりの逸材」だと私がHコーチの初回レッスンを受けたときに言っていた。

母がそのように言うのは珍しかった。基本的に母はこのスイミングスクールのコーチに対して肯定的だったが、Hコーチへの入れ込み具合は明らかに他のコーチよりも深く、信頼に満ちていたように思う。

幼かった私だが、母がHコーチに対してそのように言う理由もよく分かった。というか、私が一番良く分かっていたと言った方がいい。Hコーチは、まず教え方が具体的だった。

例えば、当時の私はクロールをただひたすらに手を回せば先に進むものだと考えていた。しかしHコーチはそれではだめだという。手は英語のSを描くように回す。それが一番前に進みやすい。そして、力を入れるのは身体を伸ばすために太ももに向かって腕をしならせている時だ。と教えてくれた。

これを実際の身振り手振りで魅せてくれれば子どもでも十分に理解することが出来る。そしてHコーチは実際に自分が泳いで魅せるお手本に力を入れていた。それは子どもの目から見ても、明らかにクロールの進み方が違うもので、ああやって泳ぐ方が明らかにカッコいいと子供に思わせるには十分すぎる実演だった。

テストの時の採点目線も明らかに違った。8級は25メートルを泳ぎ切ることが合格基準だ。しかしHコーチは進み方や動きの連続性などまで考慮して、その子の泳ぎが泳ぎとして成立しているかまで見ていた。当然だが、当時はそんなことは分かっていない。しかし幼いながら、テストに手ごたえを感じていた私が不合格だと知ったとき、感覚的にだがその基準の精密さに驚かされたのを覚えている。今まで私はテストの手応えと合否の感覚の正確さに、それなりに自信を持っていた。私の中の勝手な基準がきれいに打ち砕かれ、これでは足りないともう1つ上の次元に引き上げてくれたのはHコーチが初めてだった。

当時は恐らく納得いかないという気持ちのあったのだと思う。子供にそこまでの追求心を理解することは難しい。でも、普段の対応が真摯で真剣ならば、気持ちレベルで子供の次元を上げることは出来るのだと思う。現に私は納得できないながらも、そこでスイミングを辞めたいとか、行きたくないとかいうネガティブな面持ちに苛まれる事は無かった。自分が決めた100%なんてものは他者から見れば100%などではない。その時近くにいる人間が、その人に100%の力を発揮させる方法は、全力で向き合いながらまだいけるということを姿勢で見せる事でしか実現しないのだ。

私は子供のころにそういった経験をHコーチに教えてもらった。小学4年生と言えば、私の小学校の教室は学級崩壊寸前だった。新任の担任教師をなめてかかった生徒たちが好き放題やって、いじめに犯罪、授業のボイコットなど、まるで動物園のふれあい広場にいるストレスを抱えた動物の集まりみたいな状態だった。当時の自由の残り香が漂うせめぎあいの雰囲気を纏った複雑な時代背景もそこにはあったが、マンモス校ゆえの1人1人の自由さが際立つ校内で、たまたま自由過ぎるクソガキが沢山集まってしまい、それを管理する先生は実力も経験も乏しいという、相性の悪さもあったのだろう。私は学校が楽しくなかったし、ここで何を得て何をすることが正解なのかもよく分かっていなかった。いじめと言えば私もその対象の1人だったし、時には本当に許せない他者を巻き込む最低な行為にも晒されたが、大人に話しても解決するイメージが全く持てなかったため、ちょうど単細胞でアホなクソガキとは違い、少し穿った目線で大人を馬鹿にしているような嫌な子供に成り下がっていたように思う。

そんな中スイミングスクールで出会ったHコーチは、本来あるべき大人の正しい姿というか、人を成長させるために必要な適切な手段を実行し、私の中の大人を細分化してくれ、イメージ回復に努めてくれたのだ。

何度も言うが私をスイミングコーチに誘ってくれたのはHコーチだ。私がその話を黙って聞いて受け入れたのは、そのオファーをくれたのがHコーチだったからに他ならない。

だからこそ、私が指導者という立場になりこのスイミングスクールに帰ってきた時の堕落した環境や甘くなったHコーチの姿勢は許せなかった。今ならば、もっと違ったアプローチや働きかけで、折り合いや強行を使い分けながら共存することが出来たと思う。でも、若かった私にはそれが出来なかったのだ。18歳の大人子どもの私は、自分が打ちたてた信念と自分が育った環境こそが絶対の正義なのだと信じて疑わなかったのだから。

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