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書評 特別阿房列車

第一阿房列車

阿房というのは人の調子に合わせてそう云うだけの話で、自分は勿論阿房だなどと考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。 第一阿房列車

この本が書かれたのは昭和25年。昭和23年に国鉄発足。翌24年に下山事件三鷹事件松川事件、と「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる、謎多き事件が起こっていた翌年の事である。

内田百閒とは

内田百閒は1889年(明治22年)5月29日、岡山市の裕福な造り酒屋「志保屋」の一人息子として誕生。俳句・琴を習い、鉄道が大好き。休みの日には、国語辞典をもって百間川沿いの鉄橋近くの土手に行き、汽車が走るのを見ながら辞典を読むのが好み。

夏目漱石を私淑し、東京大学入学を機に門弟となる。多くの人と交流し、芥川龍之介は特に内田百閒を慕っていたという。漱石没後、初の漱石全集を校正。この経験から文章力がさらに磨かれたか、小説家としてデビュー。法政大学教授になってからも小説を発表し、さらに随筆でも『百鬼園随筆』(百鬼園は百閒の別号)がベストセラーとなり、随筆家としても名をはせる。そんな随筆の中の、戦後の傑作と定評があるのが、この第一阿房列車である。

内田百閒は本人曰く「体裁屋」で、いつでも良い恰好をしていたいと思っているのだという。だが根っこは臆病で、夢見がちで、感じやすく優しい人で、数多くの人から好かれていた。前述の芥川龍之介をはじめとして、法政大学教授時代の教え子、主治医、元同僚などから慕われていた。実例として、還暦過ぎの翌年から、毎年誕生パーティーを開かれていたほどである。この誕生会の名前は「摩阿陀会(まあだかい)」。

この糞ぢぢい、まだ生きてゐるかと云ふのが今晩の摩阿陀会です。まアだかいとお聞きになるから、私はまアだだよ、とかうして出てまゐつたわけであります(「摩阿陀会」)

黒澤明最後の映画作品「まあだだよ」は百閒先生がモデル

お酒とお琴が好きな愛鳥家。お酒に関しては、東京大空襲にあったとき、漱石生原稿などは持ち出さなかったが、「一合ぐらいのお酒が底に残っていた一升瓶をさげて逃げた」ような人である。

1971年(昭和46年)4月20日、老衰により没。享年81歳。

絶え間ない、そよ風のような、真面目な冗談

子供の頃、何かの出来事を見たり聞いたりしたら、そこから空想・連想が始まり、思考は飛躍に飛躍を重ね、空を飛んで海を泳ぎ、夢を見ているように様々な事柄が思い浮かんだ経験はないだろうか。百閒先生は、そんな子供の頃の想像を、夏目漱石譲りの文章と語彙で表現する。さらに百閒先生の人を喜ばせたいというサービス精神と、人に嫌われたくないという臆病とが、本人曰く「体裁屋」の膜を通して表れる。

僕は体裁屋である。車中ではむっとして澄ましていたい。そこへ発車前にお見送りが来ると、最初から旅行の空威張りが崩れてしまう。僕は元来お愛想のいい性分だから、見送りを相手にして、黙っていればいい事を述べ立てる。それですっかり沽券を落とす。どうでもいい事で、もともと沽券も格好もあったものではないのだが、そこが体裁屋だから、僕の心事を哀れんで、見送りには来ないで下さいと頼んだ。 第一阿房列車

だから百閒先生の文章を、すべて本当に起こったことと判断してはいけない。子供の空想とか言い訳とか屁理屈とかを、明治文壇の文章と語彙で見事に発展させ、真面目な文章で冗談を書くのが百閒先生の随筆である。

この話のお金は貸して貰う事が出来た。あんまり用のない金なので、貸す方も気がらくだろうと云う事は、借りる側に立っていても解る。借りる側の都合から云えば、勿論借りたいから頼むのであるけれど、若し貸して貰えなければ思い立った大阪行きをよすだけの事で、よして見たところで大阪にだれも待っているわけではなし、もともとなんにもない用事に支障が起こる筈もない。 第一阿房列車
彼は私が早暁午前十時にふらふらと駅の階段まで出て来ていると云うのが不思議なのである 第一阿房列車

自分の言動に対し突っ込みを入れてくれるのを待っている百閒先生が目に見えるようである。

僕「先生、午前十時は早暁ではありません」

そう言ったら、恐らくこう返されるのではないだろうか。

百閒先生「私にとっては早暁だ。そもそも・・・」

と、声を張り上げることなく、淡々と、絶え間なく、そよ風のように話し続けるに違いない。

そよ風のようなユーモアを、真面目に捉えたらつまらない。適当に扱ってもつまらない。そよ風はそよ風として扱うに限る。そうしておくとこのそよ風、いつの間にか体の中にとどまって、旋風にまで成長して、ハッハッハとかフッフッフと声を出させる。そうなるまで読み進めれば、それでよいのである。

一番いけないのは、必要なお金を借りようとする事である。借りられなければ困るし、貸さなければ腹が立つ。又同じいる金でも、その必要となった原因に色々あって、道楽の挙げ句だとか、好きな女に入れ揚げた穴埋めなどと云うのは性質のいい方で、地道な生活の結果脚が出て家賃が溜まり、米屋に払えないと云うのは最もいけない。私が若い時暮らしに困り、借金しようとしている時、友人がこう云った。だれが君に貸すものか。放蕩したと云うではなし、月給が少なくて生活費がかさんだと云うのでは、そんな金を借りたって返せる見込は初めから有りゃせん。 第一阿房列車

そんな百閒先生の文章を読んでいると、どこまで本当か嘘か、空想か推敲かわからなくなる時がある。そんな中、この文章は間違いなく心のままの言葉だなとわかる部分がある。

それを思うと面白くないけれど、旅行に出られると云う楽しみは、まだ先の返すと云う憂鬱よりも感動的だ 第一阿房列車
汽車の窓から見るよりも、駅にいて通過列車を眺めた方が面白い。地響きが近づいたかと思うと、大きなかたまりが、空気に穴をあけて、すぽっと通り過ぎてしまう。肩のしこり、胸のつかえ、頭痛動悸、そんな物が一ぺんになおってしまう。 第一阿房列車

違いが分かるようになってきたら、もう内田百閒について、遠い誰かさんとは思えなくなる。自分は自然と「百閒先生」と口に出してしまうようになった。会ったことも話したこともない、半世紀近く前に亡くなった人なのに、10年来の知己のように感じてしまう。そんな百閒先生の体裁屋らしい文章を、長いが引用して終わりたいと思う。阿房列車の旅の途中呉線に乗り換え、広島で一泊した時の事である。

それから町中へ降りて、繁華な街を通り、太田川の相生橋の上で自動車を降りた。相生橋は丁字型に架かっていて、こんな橋は見た事がない。橋の上に立って見る川の向こうに、産業物産館の骸骨が立っている。天辺の円筒の鉄骨が空にささり、颱風(たいふう)の余波の千切れ雲がその向こうを流れている。物産館のうしろの方で、馬鹿に声の長い鶏の鳴くのが聞こえる。また自動車へ乗ってそこいらを廻り、それから駅へ出た。

産業物産館(産業奨励館)の骸骨

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今日これから乗る汽車は、十四時三十六分発の博多行三七列車であって、昨日尾ノ道で乗り捨てたのと同じ列車である。間もなく這入って来た。三七には一等車がある。発車に間があるから、歩廊(ほろう)に立っていると、駅売りがいろんな物を売りに来る。その中に耳に立つ声があって、頻りに「麦酒にウイスキイに煙草」と呼び立てた。三つ共みんな不都合な物ばかりであるから、矯風会に云いつけてやろうかと思う。


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