プロスポーツプレイヤーが大活躍して巨額の富を手にするのを見て、すごいな〜と思う。反面、遊びなのにな、なんてつい斜めから冷めた目で見てしまう自分がいます。けど、デザインも一種の遊びかもしれないな、とも思えてくる。 「おれは本気で遊んでんだぞ!」と豪語していたyoutuberがいた。決してインターネット以後から出てきたというよりも執筆や大学講師、TV出演などの活動をしていた文化人で、その人のことは以前からぼくは興味深く思っていた。いわゆる純粋なyoutuberではないけれど、そ
偶然、不登校に関するyoutubeを見た。不登校ってかつてはあまり現実的じゃなかったけど、やはり身近に数人いる環境が普通になった。アンケートによる不登校の原因はいじめや人間関係よりもやる気になさなど無気力感のようなものがトップらしい。またコロナと発達した電子機器(主にゲーム)が増加に至るトリガーらしい。まぁそうかもしれないと思う。 しかし考えてみるとやる気もなく電子機器に頼る生活は不登校の子というよりもごく普通に生活している人と境遇はそう変わりなんじゃないかとも思う。電車に
何をするのも「デッサン力【でっさんりょく】!!」と昔はよく言われていました、もちろん受験生の頃、先生や講師からです。毎日のように描いていたのでそのフレーズも毎日のように浴びせかけられていました。そしてなんと受験に合格し大学に入ってさえそのペースは変わらず、いつまでデッサンさせられるんだろう?なんて感じだった。けど今思う、やっぱ大切だわ!と。 まず大学入って驚いたことはデッサンにも個性があるんだな〜と思ったこと。江戸時代の田舎剣士が都会の道場へ来てその流儀や技に驚いたように。
「こだわり」ってことばがポジティブに使われ出してどれくらいになったろうか?いつも何か違うことばがあるんじゃないかな〜と思っている。何か凝ったものを紹介するシーンでやたら多用されているのを聞くとちょっと引っかかっちゃうんだな。古い人間なのかな〜自分も、なんて思っちゃうこともある。 ぼくの記憶ではクヨクヨ考えこんでいるときにとっぱらうことで次のことに行ける、そんなつっかえ棒みたいなものが元々の「こだわり」だったような気がする。滞ってるやつに「いつまでもこだわってんじゃねぇ〜よ!
今2024年秋です。郵便料金の値上げで年賀状はおろかハガキ・封書の量ももっと減ってくるだろうと言われています。まぁそうだろうな、やっぱ自分でさえ考えちゃう。 今まで年賀状出し続けてきた人もこれで一気に減っちゃう気がする。 実はハガキ・封書ってすごい情報量のかたまりだと思ってる。封書なら中と外の素材感、その厚み、折り方、切手の選び方・貼る位置、住所・氏名の書き方、それらすべての質感と色やレイアウトにいっぱいデザインの要素が詰まってる。しかもそれがあのサイズに凝縮されてるってこ
コーチングという言葉をよく見聞きするようになったと思う。個人的にはそれほど大きなテーマではないが、ここ数年デザイン専門学校で教えるようになり考えざるをえないテーマになったことも無視できない状態にあると感じています。 インターネットの進化もそのコーチングが変わってきたことのひとつだと思う。自分から情報をつかまえに行く手段ができたので、得ることはできるようになった情報のみがあるからこそ、その情報を生かすためによりコーチングにスポットが当たるようになったのかもしれない。 著名な
いろいろ考えてプランしてもなかなか予定通りにうまく行きませんよね。1人でもうまく行かないのに、ましてやチームや組織になるともちろん難易度は上がりますね。 人にものを頼んだり、コストをかけて何かを見積もったりする過程でちょっとした行き違いがありまして、何だろな〜このモヤモヤと思ったことを。 ひょっとしたらそれを「昭和的」とでも言うのかな? 何かを選択するにあたって一方の全てが優れていれば悩むことはありません。そんなのってやはり稀で必ず一長一短あり迷いますね。しかも簡単に数値
今やSNS投稿で上がってる写真とか、特に自撮り!あきらかにツヤツヤしてフィルター(画像修正)かかってるよな〜なんて感じてました。すでにスマートフォンの撮影機能にデフォルトでフィルターがついてくることが当たり前になってきてるんでしょうか。あ、デジカメもか。 TVドラマやお芝居のポスターで俳優さんを見ると「無理(修正)してるな〜」って感じちゃったりしますが、あーゆー肌がツルッとした俳優さんの写真をフツーの人が見て「私ってダメ!」って美容に頼っちゃうのかな。 物心がついた頃には
今ホットな?A.I.とかについて、あんまり得意ではないけど現時点でのなんとなく雑感。 というのも触ったこともないし、チャットGPTをほんのちょっとだけ触れた程度で、この2つの違いもほとんど分かっていない奴が語ることなのでトンチンカンかもしれませんが。 ぼくの立場からすると、どちらかといえば肯定派で(といいつつ使ってませんが)効果的に使えるもんなら使ったほうがいいと考えています。 例えば専門学校でデザインの一端を教えていますが「何もアイデアが浮かばない〜!」っていう人に「チ
パリオリンピックが終わったところです。見たのは陸上競技のみでほぼダイジェストだけですが堪能できた大会でした。 中でも常人を逸した人たちが居てすごいなと感じたものでした。特に結果がどうというよりも常識を変えちゃう姿勢がすごい。よく「壁」ってコトバを用いたりしますが、いきなり破ったり超えたりはできなくとも、挑むことでコツコツと少しずつでも破ったり超えたりできる、そんなきっかけがあるもんだなと感じました。 その原動力って何なんだろう?と思うと、それは「ムチャ」なんじゃないかと。
イチローがアメリカで大活躍していた頃、やはりメジャーリーグを目指す人のブログをよく読んでいた。あの人どうしたろうかな〜。その人の一節をつい思い出したので。 彼は以前、日本のプロ野球で審判をしていてアメリカに渡り審判としてメジャーリーグにチャレンジしている人だった。中でもキャッチャーの後ろから主審として見ていて、いい球だなと思うものをヒットにするのは普通の選手、では一流のバッターの条件とは?というような話しに「とんでもないボール球をヒットにしちゃう人」と語っていたような気がす
プロミング教育についてラジオで話していた。なかなか全ての小学校に行き渡っているわけでもなく、差があったりもっと活かせるシーンがあるのに活用できていないと話していた。 ぼくはやったこともなく想像の域を出ないのですが、どちらかと言えば肯定派で、もっとやればいいのになと思う。けど反面、あまり頼りすぎるのもどうかなとも思う。(ずるいね) 仕事上で必ずぶち当たるところが感覚的に進める部分とロジカルに進める部分とがごちゃ混ぜになって迷走することがある。いったん感覚的に暴走するとどこへ行
そろそろ夏休みです。ちょっとラジオで自由研究の話しなどをしていました。ぼくはどうもこの「自由研究」というものが苦手なのです。 自分が子どもの頃もやった覚えもなく、やっていたとしても何も覚えていない。やったんだろうか?やったとしても決して自由ではなくやらされてたんじゃないかと思う。 ぼくにも子どもが3人いますが「自由研究だから自由なんだし、やらないって選択肢はないのかね?」と常に聞いてきていたように思う。基本的な考えとして子どもの夏休みなんて遊ぶだけ遊んでろって今でも思う。
日常バックパックを使い出して今背負ってるものはもう何代目だろう?中学生の頃から今使っているのがたぶん13代目かな?もういろんなメーカーのものを試しました。ここ数年はドイターの連続ですが。 なぜそんなバックパックだけに固執するのかといえば手にものを持ちたくないからです。なぜものを持ちたくないかといえばモノが考えられなくなるからです。 イタリア人は手を縛ると何も言えなくなる、なんて冗談がありますが、アレあながち冗談じゃない気がします。特にぼくはおしゃべりな方ではありませんが、
家に帰ってくると毎度「あーあ…」と思うことがある。ぼくの自宅は集合住宅ですが、ダダダ〜と並ぶ駐車場があります。揃えたかのように並んだクルマが全部白黒グレー(シルバー)のモノトーンです。 捉え方によっては揃っててすごいことなんだろうけど、ぼくとしてはさみしい… クルマのリセールでモノトーンは価格が安定してしているとか?仮にそんな価格(が下がりにくい?)で選んじゃうって貧しくないかなと思う。欲しい色の車を素直に選べないもんだろうか?それもやはりお好みなのでしょうか? 色で散乱
ぼくはマスクが嫌いである。するのはもちろんのこと、つけられて会うのもあまり歓迎しない。まぁもちろん事情はあるんでしょうが。 サングラスは好きである。7〜8本持ってるし、目もあまり強くないので外出時はほとんどかけて出かけるし、用途別にも使い分けてる。そして相手がしていても気になることはほとんどないし、人と会うときは外すことも心がけている。 ず〜っとサングラスかけてた人がはずしてもそれほど違和感は感じないが、やはりマスクはかけていた時とはずした時の差を感じる。特にここ1〜2年は